SSブログ

ただ一度 [説教全文]

ローマの信徒への手紙610

 

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。(新共同訳)

 

パウロがローマの信徒の人たちに手紙を書き送ったと言うことは、ローマの信徒の人たちの中にパウロのことを知っていた人がいたからなのだと思われます。そうでなければ、パウロは手紙を書き送ることはできなかったでしょう。勿論、手紙を書き送った時、ローマをパウロは尋ねたことがなかったので、そんなに詳しいローマの信徒の人たちの状況は知らなかったのだと思います。しかし、三回目の伝道旅行の途中だと思われますが、地中海世界を当時支配していた古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることをパウロは聞き及んだのでした。

当時の地中海世界には、様々な宗教や思想があり、その数だけ世界観、歴史観があったものと思われます。例えば、仏教などは、輪廻と言って生と死を繰り返すと言った宗教観、歴史観があると言います。それと同じように歴史が繰り返すという歴史観が地中海世界にもあったものと思われます。キリスト教の歴史観は、そういった繰り返す歴史ではなく、始まりがあり、終わりがあるという歴史観です。

パウロは、歴史の終わりが間近に迫っていると言うことを信じていたようです。明日にでも歴史が終わり、主イエス・キリストが再びこの世に来られ今のこの世界の歴史が終わり、新しい世界が始まると信じていたようです。19世紀のドイツに神学者であり牧師であるブルームハルトと言う人がいました。この人には、面白い逸話があります。なんでも、主イエスがこの世に再び来られることを間近に信じていた人で、当時の乗り物と言えば馬車でしたから、再び来られた主イエスをお迎えするのにそのための馬車を用意していたというのです。このようなことができるのは、十字架に架かられ死なれた主イエスが、復活され、そして天に昇られ、そして神の下で生きておられると言うことを文字とおり信じていなければ、できないことだと思います。

歴史とか、時間と言ったものが何であるのかと言うことは、古今東西の思想家たちが色々と語っていますが未だ解明されていません。しかし、何であるかを知らなくても私たちは、今現在歴史の中に生きているのであり、時間の中に生きているのです。今の一瞬は、一瞬一瞬過去になり、二度と同じ今は戻ってこないのです。そのようなことを考えると、一瞬一瞬は二度と繰り返すことなく、歴史や時間には始まりがあり、終わりがあると言うことも納得できるように思います。

今日の個所で、パウロは「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」と書いています。もうすでに歴史の中で、キリストが死なれた、しかも一度死なれたことにより、私たちは罪の支配からキリストによって解放されたと信じる信仰が言い表されているのだと思います。それゆえ、私たち人間は、歴史と時間の中で二度と戻らない一瞬一瞬を生きていますが、その一瞬一瞬を再び来られる主イエスを待つように生きて行ければと思います。

聖書をお読みします。「戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。・・・あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」・・・それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。・・・だから、気をつけていなさい。一切のことを、前もって言っておく。」・・・「それらの日には、このような苦難の後/太陽は暗くなり/月は光を放たず/星は天から落ち/天の諸力は揺り動かされる。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」(マルコによる福音書137節以下)

(柴田良和)


<教会ホームページ>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

<説教音声>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

牧師方針 2024年度 [牧師室通信]

中村尚子


昨年度は、丸一年ほぼ入院しており、ご心配、ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。今年度もしばらくはリハビリに要すると思われますが、できれば夏ごろから説教奉仕と祈祷会の奉仕に復帰したく思います。説教については、昨年する予定でしたマルコ福音書の中からマルコだけに書かれている特殊資料というものをとり上げていきたいと思います。四福音書の中で一番古いとされているマルコ福音書のメッセージをじっくりと聞いていきたいと思います。祈祷会は「聖書教育」のカリキュラムにそって読んでいきたいと思います。


柴田良和

 

説教では、昨年度はローマの信徒への手紙を読み進んできていますが、今年度もローマの信徒への手紙を読み進んでいきたいと思います。しかし、今年度は、ローマの信徒への手紙だけでなく、パウロがいつも旧約聖書を振り返っていたように旧約聖書の個所も説教したいと思います。それだけでなくパウロの他の手紙や福音書、新約聖書の中から任意に聖書箇所を選んで聖書を読んでいきたいと思います。説教の全体のテーマは「信仰の基本に立ち返る」としたいと思います。信仰の基本に立ち返ると言うことを皆さんと考えながら、これから私たちの教会がどう歩んでいくべきかを考えていきたいと思います。コロナがある程度終息してきていますので、何か教会の外に向けての活動もできればと思います。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

死者の復活 [説教全文]

ローマの信徒への手紙69

 

そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。(新共同訳)

 

パウロはユダヤ教徒でした。パウロとイエスはほぼ同年代に生きた人でした。当時のユダヤ教は、一枚板ではありませんでした。ユダヤ教と言っても様々なグループがありました。その中でも新約聖書に登場してくるのは、サドカイ派というグループとファリサイ派というグループでした。サドカイ派と言うのは、エルサレム神殿を拠点として、活動する貴族階級の人たちでした。それに対してファリサイ派と言うのは、庶民階級の人たちで宗教運動を起こしていた人たちでした。パウロは当時の有名な律法教師であるガマリエルと言う人に学んだファリサイ派の人でした。サドカイ派の人たちは、死者の復活はないと主張していました。一方、ファリサイ派の人たちは、死者の復活を信じていた人たちでした。パウロはファリサイ派の人ですから死者の復活を信じていました。

宗教的背景のない現代のわたしたちも死者の復活と聞くと何かおとぎ話のように聞こえるかもしれません。もう十年くらい前のことですが、あるグループが聖書学習会をすると言うことで、講師を依頼されたことがありました。女性の四・五人くらいのグループでした。ニ・三年は続いたでしょうか。ルカによる福音書を最初から最後まで読み終わり、ローマの信徒への手紙を読み進んでいました。ある日、そのグループの一人の方が、「わたしには復活が信じられない」とおっしゃいました。その方の属していた教会は、伝統のある大きな教会でしたので、教会の中で復活のことが分からないなどと言い出すことができなかったのでしょう。その小さなグループの中で、本音を言うことができたのだと思います。実は、私も神学校時代に復活に関する授業があり、その中で考えれば考えるほど復活のことが分からなくなり、修了論文のテーマがイエスの復活に関することで書きました。その論文では、福音書の復活に関することを中心に書きましたので、パウロが復活に関してどのように思っていたかまでは書くことができませんでした。

パウロがキリスト信徒になったのは、復活のイエスに幻のうちに出会ったからでした。そのことの様子が、使徒言行録には書かれています。実際、パウロはファリサイ派の教育を受けた人だったので、死者が復活すると言うことに関しては疑いようもなく信じていたのだと思います。パウロはこのように言っています。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」(コリントの信徒への手紙一1535節以下)。

パウロはファリサイ派の人でした(フィリピ35)。そして、ファリサイ派は、復活を信じていました(使徒238)。パウロにとって、その宗教的生い立ちから、「死人の復活」に関しては疑問の余地がないほどに信じていたものと思われます。しかし、パウロと宗教的背景も文化的背景も違う私たちも含む人たちにとっては、「復活」を受け入れることは容易ではないのではないでしょうか。

パウロにとって死人の復活は疑問の余地がないほど信じられていたものと思われます。私たちを含む多くの人たちとパウロの生い立ちには大きな違いがあります。パウロにとって復活に関して復活を信じない人たちに説明することには困難さを持っていたように思われます。パウロにとって、死人の復活は、神の全能であるという信仰から説明する以外になかったのではないだろうと思われます。復活というのは、存在の根拠を問われる問題です。現代科学は、自然界の法則を発見し、発明という仕方で自然界の物質や法則を利用することはしていますが、自然界の物質や法則の本質がなんであるのかという認識には至っていません。つまり、人は、自然界つまり存在を利用することはできても創り出すことには至っていないのです。無から有を創りだされる全能の神を信じるか、あるいはこの世の存在は偶然の上に立っているとするかは、私たちの現在の生き方に大きく関わってくる事柄であると思います。死者の復活を信じる生き方は、希望に生きる生き方につながっていると思えるからです。

(柴田良和)


<教会ホームページ>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

<説教音声>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

キリストと共に生きる [説教全文]

ローマの信徒への手紙678

 

死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(新共同訳)

 

パウロが手紙を書き送ったローマのキリスト信徒の人たちは、旧約聖書の物語を知っていました。現代のわたしたちは、聖書と言えば、旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書(正典)と呼んでいます。しかし、パウロの時代は、聖書と言えば旧約聖書のことでした。最初期のキリスト信徒は、旧約聖書を教典として読んでいたのでした。そして、パウロとローマのキリスト信徒の人たちの接点は、その旧約聖書の物語でした。

何年か前に教会のホームページに次のようなコラムを載せました。「今までに一度は、自分とはなんなのか、あるいは、この世界の不思議さに思いを巡らしたことがあるのではないでしょうか。聖書を最初に紐解くと、この世界の創造の物語が綴られています。最初に、神によって「光」が創られ、空と海、大地、草木、太陽と月星、動物、そして、最後に人間が創られました。もちろんこれらの物語は、神話です。理性的に考えると荒唐無稽な物語かもしれません。しかし、聖書は科学の本ではありません。自分について、この世界についての存在の不思議さに目を向ける時、存在の背後に何かの意志を感じます。この創造の物語を伝えた古代の人たちは、そこに神の意志を見ていたのだと思います。そして、それは自分たちに対する神の好意として受け取ったのだと思います。」。

創造物語の中で、最初の人であるアダムは、神が土をこねて創られ、神が息を吹きかけると生きたものとなったと書かれています。そして、エヴァが創られました。しかし、このアダムとエヴァは、なに不自由なく暮らしていたのに神から禁じられていた木の実を食べて死が人間に運命づけられたのでした。

この物語から勿論いろいろなことが思い浮かび考えることができますが、その一つとして考えられるのは、古代の人たちは人間が神と等しいものになろうとすると言うことに神への逆らいつまり罪というものを感じていたのではないかと思います。罪と言うのは、つまり、人の生き死を自分の手に握り、自ら思うがままにすることができるようにしようとする思いのことです。古代の人たちは、先人たちがやがて死に土にかえっていくのを見てやがて人は、死に土にかえっていくことを運命づけられていくと言うことに自分たちではどうすることもできない人の生き死の現実を見ていたのだと思います。

現代の私たちは科学の進歩によって、どのように人が存在しているかが説明できるようになってきました。医学の進歩によって人の死が少しずつ遠のいていくかのように思えます。しかし、科学によっては、なぜ、人が存在しているのかは説明してくれません。何ひとつ人間の手によっては存在を造り出すことはできないのです。そういった意味では、人間も含めてこの世界の存在は、すべてすでにそこにあったもの、どこまで行っても被造物なのです。そして、その存在を偶然の産物と見るか、神の意思と見るかは、私たち一人ひとりに任せられています。信仰者は、神話である創造物語を通して、人間も含めたこの世界の存在を神の意思と信じるのです。

「死んだ者は、罪から解放されています。」とパウロは今日の個所で言います。それは、つまり、人の生き死を自分の手の中にあるとする自分が死ぬと言うことなのだと思います。命が自分のものであるというあり方に死んで、自分のものでなく神のものであると信じることによってキリストと共に生きることになるのだと思います。

この世のものはすべて神によって創られた。その素朴な思いになかなか思い至らないのが私たち現代に生きている者の現実です。しかし、私たちと同じ被造物として生きられたキリストは、私たちと共に今も生きて下さり、私たちに寄り添っていてくださっていることを信じたいと思います。

聖書を一か所お読みします。「主よ、苦難に襲われると/人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと/彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず/地上に住む者を/産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」(イザヤ書2616節以下)。

(柴田良和)


<教会ホームページ>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

<説教音声>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

罪の奴隷とならないため [説教全文]

ローマの信徒への手紙66

 

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(新共同訳)

 

わたしたちは過去に起こった出来事をすべて思い起こすことができるのかと言えばそうではありません。そのほとんどのことは思い起こすことができず、忘れてしまっていることがほとんどです。しかし、印象に残り、その後の人生の中で何度も繰り返し思い起こす出来事もあるのではないでしょうか。ギリシア語では、「時」を表す言葉として「時刻」を指すカイロスと「時間」を指すクロノスの2つの言葉があります。「クロノス」とは、過去から未来へ一定速度・一定方向で時計のように機械的に流れる連続した時間を表現し、「カイロス」とは、一瞬や人間の主観的な時間を表すこともあり、内面的な時間です。このギリシア語で言い表されている「カイロス」という時間、出来事と言ってもいいのでしょうか、その時間に起こった出来事は繰り返し忘れずに思い起こすことがあります。

その一つに罪という言葉にまつわる出来事です。まだ教会には行っていなかった高校生の時、その後の人生で恩師と言えるほどお世話になった牧師に英語を教わっていた時のことです。最寄りの駅からその牧師の牧師館に向かう途中のことです。一人の人に呼び止められました。その人は色々と何かを言っておられたのだと思いますが覚えていません。ただ、その人が言った一言に私は腹を立てたのでした。それは、「あなたは罪人だから悔い改めなさい。」という言葉でした。今から思えばキリスト教徒で路傍伝道をしていた人だったのかも知れませんが、その時のわたしは、見知らぬ人にいきなり「罪人」つまり犯罪者扱いにされてすこぶる不愉快だったのでした。なんとキリスト教とは不愉快で、失礼な宗教なのだろうと思ったものでした。そのことを恩師の牧師に話したらただ笑っておられるだけでした。厳密に言えば、犯罪とキリスト教で言うところの罪とは違うのだと言うことを少しづつですが分かるようになってきましたが、まだまだはっきりと分かったということはできません。

確かに犯罪と罪とは重なるところがあると思います。イエスは犯罪者として十字架に架かられました。マルコによる福音書には、「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。」(マルコによる福音書1527節)と書かれています。イエスは、犯罪者である強盗と一緒に十字架に架かられたのです。マルコ福音書以外のルカ福音書などでは、今日は読みませんが、この時の様子がもう少し詳しく書かれています。犯罪者とされたイエスは罪人であったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」(詩編362節)。犯罪はあくまでも人と人との関係の中で起こることです。それに対して、罪とは罪人と言う言葉が問題となるのは、神と人、もっと言うならば神と自分との関係の中で起こることです。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」(詩編1913節)と詩編の詩人は言います。宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者は罪人であって同時に義人である」。

キリスト教で言う罪と言うのは、神と自分との関係の中で問題となる言葉です。自分が罪人であるという自覚は、誰に言われるのではなく自らの心のうちに問い続けることから生まれて来るものだと思います。そして、そこにイエスが架かられた十字架が立っているのだと思います。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。」(詩編25 7節)。

(柴田良和)


<教会ホームページ>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

<説教音声>
東大阪キリスト教会(日本バプテスト連盟) (fc2.com)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感