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恵みが働くとき [説教全文]

ローマの信徒への手紙516

 

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(新共同訳)

 

人の一生とは、短いものだと最近つくづく思わされています。わたしは現在64歳ですが、子供の頃、若いころは、64歳の自分というものは想像もしませんでした。歳をとってきたせいか、子供の頃のことをつい最近のことのように思い浮かべるときがあります。しんどいことも多かった今までの人生ですが、キリストと出会ってから何かに導かれるようにして生かされてきたなぁという実感も一方にはあります。思えば平凡な今までの人生でしたが、いつも平穏無事な事ばかりというわけでもありませんでした。特に精神的な病気になった時は、あの時のしんどさは二度と味わいたくないと思います。幸いにも今は寛解状態ですので何とか普通の生活を送れるようになりました。キリストに出会ったおかげで、周りの方々の祈りに支えていただき生かされてきた自分を思います。

パウロもまた、全くの健康な人であったというわけではなく、自らとげと呼んでいる何らかの病気、障がいをもって人だったようです。そのことについてパウロは次のように手紙に書いています。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙二127節以下)。「三度主に願った」というのは、一度きりと言うことではなくて、何度も何度も神に願ったと言うことです。しかしその答えは、十分に恵みを与えているし、弱さの中でこそ力が発揮されるというものでした。

しかし、パウロはそんなに弱い人ではなかったと思います。今のトルコであるタルソスという町の出身でしたが、ユダヤ人の家に生まれ、それなりのユダヤ人としての教育を受けていたのであろうし、若い時にエルサレムで育ち、ガマリエルという当時有名だった教師に学んだ人であったのでした。それゆえ自らのことをユダヤ人の中のユダヤ人と言うほど熱心な生粋のユダヤ人として生きていた人でした。使徒言行録に書かれている演説の中でパウロは次のように言っています。パウロが三回目の伝道旅行の目的地であるエルサレムで逮捕され、そのときエルサレムのユダヤ人の人たちに語った弁明です。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。」(使徒言行録223節)。

ユダヤ教徒として熱心だったパウロは、キリスト信徒を迫害するほど熱心にユダヤ教徒であろうとしました。しかし、弱さの中にあって逃げ回るキリスト信徒を追いかけている途中で、復活のイエスに幻のうちに出会い、その後のパウロの生き方が変えられたのでした。

わたしは、ときどき思うのですが、そんなことは思ってみても詮無きことですが、キリストにもし出会っていなかったら今頃どのような人生を送っていたのだろうと思います。勿論、このように皆さんの前で聖書の話をすることもなかったのであろうし、キリストにある方々の出会いもなかっただろうと思います。つくづくと、自分の人生でありながら何か不思議な導きによって、導かれてきた人生であったと思います。

パウロもまた、波乱万丈の人生を生きながら、キリストと出会った人生を生きながら、そこに神の恵みを、キリストにすべてをゆだねる恵みを、弱さの中にあっても働かれる恵みを、いやむしろ、弱さの中にあるからこそ働かれる恵みを感じながら生きた人ではないかと思うのです。時には、一日一日を引きずるようにして生きなければならない時もありますが、そのような時にこそキリストの恵みが働いていてくださっていると信じてまいりたいと思います。

(柴田良和)


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恵みの賜物 [説教全文]

ローマの信徒への手紙515

 

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(新共同訳)

 

イエス・キリストと言うときそこには信仰告白が含まれています。キリストという言葉は、ヘブル語のメシアのギリシア語訳です。メシアというのは油注がれた者という意味です。日本語に訳すると救い主、すなわち救ってくださる方という意味です。

キリスト教徒は、キリストに救いを見、キリストによって救われていることを信じるのです。何から救われるのか。それは人間の罪と死の現実から救われると言うことです。パウロはこの罪と死の現実を見つめ続けた人だと思います。自身の罪に関しても、「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(テモテへの手紙一115節)と書かれているように、パウロは罪人としての自覚を誰よりも持っていた人であったと言えるでしょう。

高校生の頃、駅前の繁華街で呼び止められました。その頃はまだ教会にも通っていなかった頃です。ちなみに私が教会に行きだしたのは二十歳になってからのことです。その人はいきなり、私の顔を見るなり、「あなたは罪人だからキリストを信じて悔い改めなさい」みたいなことを言われました。今から思えばたぶん路傍伝道をしていた人だったのだと思います。それにしてもいきなり人の顔を見て「罪人」だと言われ私はカチンときました。人を突然、犯罪人扱いにしてなんと失礼な事だろうと思ったのでした。そんな経験もあったので、キリスト信者になってからも罪とか罪人という言葉を使うことは極力避けていました。勿論、私自身の事を見つめるとやましいことの全くない人間だとはいえません。人には知られたくない思いが自分の中にあるのも知っているつもりです。

しかし、罪と言うことをじっくりと考えたことはあまりありませんでした。最近、若い時と違って、若い時は死について現実味を持って考えませんでしたが、大分と歳を取って来た昨今は死についてよく考えるようになりました。聖書の言葉があります。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙115節)。聖書では、罪の先に死があるのだと言われています。

福音書には、イエスがおられるところに一人の女性が駆け込んできた話があります。この女性は姦淫を犯したとして人々に追われていた女性でした。人々は、石を投げ付けこの女性をリンチにかけようとしました。イエスは座ったまま地面に何かを書いておられました。この姦通を犯した女性をどうすべきか尋ねられると、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネによる福音書87節)と言われ地面に何かを書き続けられました。すると、年長者から始まって一人、又一人と立ち去って行ったのでした。ここで、年長者から始まったと言うことは、若い人よりもより死というものを身近に感じていたからではないかと、それゆえ罪の意味を感じていたからではないかと思います。

今日の個所でも「一人の罪によって多くの人が死ぬことになった」とパウロは言います。一人の人というのは、前節の話の流れから禁断の木の実を食べたアダムのことを指します。古来、なぜ死というものが人間にあるのかを考え、聖書の神話物語では、アダムの物語を通して語られています。何故アダム一人の罪が人間に及んだのかということから考えるとわからなくなりますが、人間の現実からこのアダムの物語を読むと、なぜ人間はいつの間にか生まれ、そして苦労して生きて、やがて死ぬという運命になったのかの説明が信仰告白として、言い表されているのだと思います。

そのような罪と死の人間の現実に対して、神は無関心ではおられませんでした。イエス・キリストと信仰者が告白する方をこの世に送って下さったのだと信仰者は告白するのです。宗教改革者のマルチン・ルターという人は、キリスト信仰者の現実を「罪人にして義人」という言い方で言い表しています。パウロのように罪人の最たるものという罪の自覚のある者が、義人としての生きる道が開かれているのだと言うことなのだと思います。

犯罪人として十字架で殺害されたイエス・キリストが復活されたこと。そのことを信じる信仰によって、「罪人にして義人」として生きる私たち信仰者にも死を乗り越える復活の希望が賜物として与えられているのだと信じたいと思います。

(柴田良和)


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来るべき方 [説教全文]

ローマの信徒への手紙51314

 

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(新共同訳)

 

パウロは、未だ会ったことのないローマのキリスト信徒に手紙を書き送りました。その際、自己紹介も兼ねて旧約聖書の物語をどの様に考えているかを表明します。

宗教というものは物語を共有することから始まります。人間は物語を共有することから協力して生きて行けるようになったと言われています。世界には多くの宗教がありますが、それぞれ物語を持っています。例えば、仏教には仏教の物語があり、イスラム教にはイスラム教の物語があり、ギリシアにはギリシア神話という物語があります。

パウロが伝道活動を行っていた当時のローマのキリスト信徒の物語は、旧約聖書に書かれている物語でした。旧約聖書は、ユダヤ教の教典ですが、キリスト信徒も教典としていました。旧約聖書は、ヘブライ語で書かれたものですが、パウロが活動していたころには、七十人訳と言って、当時の共通語であるギリシア語訳が読まれていたものと思われます。古代ローマ帝国の支配下にあった地中海世界では、ギリシア語が使われていました。それゆえに新約聖書は、ギリシア語で書かれています。

旧約聖書の物語は、最初に神によって創られたアダムという人の物語から始まります。このアダムの物語は、人間とはどのような存在であるかと言うことを神話という物語を通して語られています。神が土からアダムという人をつくり、鼻に命の息を吹き入れられて生きたものとなったのでした。神はアダムに神に逆らうこともできるという完全な自由を与えられたので、アダムと契約を結ばれました。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記215節以下)。しかし、アダムは神との契約を破り、禁断の木の実を食べてしまったのでした。その時からアダムつまり人間はやがていつかは死なねばならない者として生きて行くことになったのでした。

その後も神は様々な方法で人を救う救いの道を示されましたが、やがてモーセという人を通して律法という人が仲良く生きて行くための法律を人間にお与えになりました。

律法を守らない者は罪人として処罰されます。日本の法律でも刑法では罪刑法定主義と言って、法律を守らなければ犯罪人として処罰されます。日本では死刑制度が廃止されていませんから、死刑にもなるわけです。しかし、パウロにとって、律法の規定のあれやこれやの違反が本質的な罪ではないと考えていたのだと思います。パウロにとっての罪とは、神に逆らうこと人間みずからが神の位置に立つことを罪と考えていたのです。

そのような人間の現実に対して、神は主イエス・キリストをこの世に送られたのでいた。この主イエス・キリストによってやがていつかは死なねばならないと運命づけられている人間の運命を乗り越える道、復活の希望という道が示されたのです。

パウロはそのことを端的な言葉で書いています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピの信徒への手紙23節以下)

(柴田良和)


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共感のあるところ [説教全文]

ローマの信徒への手紙512

 

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。(新共同訳)

 

復活の主イエスに出会ってから残りの半生をパウロはキリストの福音を宣べ伝えることに時間を費やします。大きな伝道旅行をキリストの福音を伝えるため古代ローマ帝国が支配する地中海世界で行いました。その伝道旅行の途中で、古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることをパウロは知ったのでした。パウロはローマにいるキリスト信徒に長い手紙を書きました。その手紙は、自己紹介を兼ねて書かれたもので、パウロとローマのキリスト信徒との共通の教典である旧約聖書の物語を手掛かりとして書かれたものでした。パウロは、旧約聖書に登場する人物、ユダヤ教徒にとっては信仰の父として尊敬されていたアブラハムをどう思っているかを語ることによって、ローマのキリスト信徒に自分の立場を明らかにします。アブラハムは行いによる義、正しさではなく、つまり行為義認ではなく、信仰による義、正しさ、つまり信仰義認に生きた人であったというパウロの認識です。

聖書は、現代で言うところの歴史書でも科学の解説書でもありません。聖書は、多くの神話や物語が含まれている信仰告白の書物だと私は思っています。聖書に書かれているのはその時々の人々がどのような状況の中で、神を信じ信仰していったのかが書かれている信仰の告白が集められたものだと思っています。ですから、聖書に書かれていることが実際にあったことだとすると現代の私たちの科学的な常識とは、矛盾することも多く書かれています。

特に旧約聖書の最初の書である創世記の天地創造の物語は、神話です。神がどのような方であるのかを神話という物語を通して古代の人々が言い表した信仰告白の物語が天地創造の物語です。その天地創造の物語で、人間も含めて六日間でこの世界を神は創造され、七日目に休まれました。神はご自身が造られたすべてのもの、それは人間も含めて、を御覧になって極めて良かったと聖書には書かれています。

それから最初の人間として登場するアダムとエヴァの物語が始まります。神は土をこねてアダムを造られ、そのアダムのあばら骨からエヴァを造られました。アダムが住んでいたところはエデンの園と呼ばれていて、アダムがそこを耕し守る仕事を与えられました。人は何不自由なく暮らしていました。だだし、神は人と契約を結んだのでした。それはエデンの園にある善悪の知識の木からは決して食べてはならないというものでした。なぜ神がそのような契約を人間と結ばれたのか。私はこう思います。神は全くの自由を人に与えられたのではなかったのかと思います。神は全能の方ですから、アダムが神に逆らうことなく全くの従順な存在としてお造りになることもできたはずです。しかし、完全な自由をアダムに与えるため、すなわち、神に逆らうこともできる自由を与えるためにそのような禁断の木を置いて契約を結ばれたのではなかったのではないでしょうか。結果として、アダムとエヴァは、神との契約を破り、禁断の木の実を食べたのでした。神の契約を破り、神に逆らうと言うことは、神と同じ立場に立とうとすると言うことです。この神話である創造物語から、人間は、いつの間にか生まれ、そして苦労して人生を生きて、そして死んでいくと言うことが運命づけられたと信仰告白として物語られているのだと思います。

わたしは想像します。古代の人たちは、勿論、進化論という科学の仮説などは知りませんでしたから、薪などを囲んで、子供たちに語り聞かせたのではないかと。子供たちの疑問に答えるように何故人は苦労して働き人生を生きるのか。何故、人は死んだら土にかえって行くのか。人はだれ一人として、自分の運命から逃れることはできません。すなわち、いつの間にか生まれ、苦労して人生を生き、そして、死んでいくという運命から逃れることはできないのです。それは、信仰者であろうと誰であろうと人である限り同じ運命をたどるのです。

しかし、キリストを信じる人には、その運命の先にある希望があるのではないでしょうか。主イエスキリストが復活されたという信仰の先にある希望は、私たちすべての人に与えられている希望だと信じます。

(柴田良和)


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新しく確かな霊を授けてください(元旦) [説教全文]

詩編5112

 

神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。(新共同訳)

 

おはようございます。そして、明けましておめでとうございます。2024年という新しい年が始まりました。今年はどのような年にしたいと皆さん思っておられるでしょうか。子どもの頃は、新しい年が始まるとき何かいいことが起こるのではないかと期待していましたが、歳を取るごとにそのような新鮮な気持ちが失われていっていくように思います。しかし、年始と言うのは、一つの区切りとして心改め、明日に向かって歩んでいく決意を新たにする時としたいものです。

今日は、元旦礼拝として礼拝をささげていますが、聖書には元旦と訳されている言葉はありません。口語訳聖書に元日と訳されている言葉はあります。元旦と元日の違いは、元旦は、1月1日の午前中を指す言葉なのに対して、元日は1月1日を指す言葉のようです。聖書には、元旦と言う言葉は訳されていませんが、1月1日の午前中に礼拝を行うので、元旦礼拝と教会では呼ばれるようになったのでしょう。

哲学の仮説で、世界五分前仮説というものがあります。世界五分前仮説とは、「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説です。バートランド・ラッセルという人が、唱えた哲学の仮説です。わたしたちが現在、今あるものはすべて五分前に私たち自身の過去の記憶も含めて創造されたものだという思考実験です。この世のものはすべて、今現在のものしか存在していません。SFの世界でもない限り、過去の自分に戻ることはできないし、未来の自分になることもできないのです。わたしたちには、今現在しかないことになります。今の一瞬、一瞬が私たちの生きている場なのです。この世界五分前仮説に基づいて、アダムとエヴァにもへそがあったとする神学的仮説があるようですが、今日はその話はやめておきます。

神は、今現在、一瞬一瞬を導いておられる方だと思います。その一瞬一瞬を大切に生きる一年としたいものです。

今日の聖書の個所の祈りの聖句をもう一度お読みいたします。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」

(柴田良和)


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