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確信に基づく信仰 [説教全文]

ローマの信徒への手紙419

 

そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。(新共同訳)

 

主イエス・キリストが十字架に架かられたとき、多くの弟子たち、仲間たちはエルサレムに集まっていました。エルサレムはイスラエルの首都であり、ユダヤ教の神殿、エルサレム神殿があるところです。古代の宗教は、ユダヤ教に限らず動物犠牲を行うことが宗教の宗教たるゆえんでした。主イエスをエルサレムの権力者たち、ユダヤ教の支配者たちは策謀を用いて、主イエスを十字架に架けたのでした。そのことで民衆の人気があった主イエスを抹殺することによって、エルサレムの権力者たち、ユダヤ教の支配者たちは自分たちの支配体制が脅かされることはなく、ことは終わったと思ったのだと思います。しかし、主イエスの弟子たち、仲間たちはエルサレム神殿に集まり、集会を持ち、祈りを捧げていました。そして、主イエスが復活なさったこと、主イエスがメシア、キリスト、救い主であることを公然と言い表し始めたのでした。面白くないのは、エルサレムの権力者たち、ユダヤ教の支配者たちでした。公然と主イエスがキリストであると言い現し始めた主イエスの弟子たち、仲間たちを逮捕するなど迫害をし始めました。こうして、主イエスの弟子たち、仲間たちはイスラエル中、イスラエルを越えて地中海世界へと迫害を逃れて散らばって行ったのでした。

はじめは、キリスト信徒を迫害に加担していたパウロでしたが、キリスト信徒を逮捕するためにイスラエル中を追いかけ回していた途中、復活の主イエスと幻のうちに出会い、その後の人生は主イエスがキリストであるとの福音を伝える伝道者として活動をしたのでした。

キリスト教はユダヤ教が土台となっている宗教です。ユダヤ教の教典は旧約聖書(ヘブル語聖書)でした。パウロが活動していた当時も唯一の教典は旧約聖書でした。パウロは古代ローマ帝国が支配していた地中海世界に伝道活動をしたわけですけれども、もうすでに地中海世界には、多くのキリスト信徒がエルサレムでの迫害を逃れた人たちを含め移り住んでいたのでした。

古代ローマ帝国の首都であるローマにもパウロが伝道する以前にキリスト信徒がいて、信仰生活をしていました。もちろんローマのキリスト信徒の間でも土台となっているのは、ユダヤ教ですから教典は旧約聖書でした。ローマのキリスト信徒の中にはユダヤ教徒もいましたから、旧約聖書の中だけでなく伝統的に信仰の父として尊敬されてきたアブラハムのことはよく学んでいたのだと想像できます。

アブラハムが神の祝福の約束を受けるまで過去がどういう人であったのかは、聖書には書かれていません。ある日突然、神の啓示があり、今いる土地を離れて約束の地へと旅立つように神からの言葉がありました。アブラハムは、その神の言葉を信じて旅立ったのでした。この時もまたアブラハムに対して、祝福の約束がありました。聖書には次のように書かれています。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記121節以下)。

アブラハムにはサラと言う配偶者、妻がいました。アブラハムと妻サラはもう子供ができない年齢になっていました。にもかかわらず、幻のうちに神はアブラハムに語りかけられ、アブラハムとサラの間に子供が生まれることを約束されたのでした。

現実的には全く不可能だと思えることは、私たちの現実です。現代の私たちにとっても戦争と平和の問題、経済的格差の問題、温暖化による環境の問題、それらを解決して、全世界の人々が平穏無事に生活できる日が来ると言うことは、全く現実的には不可能だと思えます。しかし、にもかかわらす、アブラハムの物語は、その不可能を可能な事として、して下さる方がおられる、どのような状況の中にあっても希望を持つことができることを示しているのではないでしょうか。現実をしっかりと見極めることは大切なことですが、しかし、その現実を乗り越えて希望へとつなげていくことができるそれが神を信じる私たちの確信であり、その確信に基づいて与えられていく信仰なのではないでしょうか。

(柴田良和)


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なおも望みを抱く [説教全文]

ローマの信徒への手紙418

 

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、ローマのキリスト信徒の人たちに信仰の原点とも言うべき人物に目を向けるようにと促します。その人物とはアブラハムと言う人です。当時のキリスト信徒の教典は旧約聖書でした。アブラハムが信じた神、その神はアブラハムに祝福の約束をされたのでした。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記151節以下)。

アブラハムにとっては不可能だと思えることがら、すなわち子孫が星の数のように数えることができないほど増え広がると神はアブラハムに祝福の約束をされるのです。実際、アブラハムにはイサクという子が生まれイサクにはヤコブ(イスラエル)と言う子が生まれ、アブラハムの信仰を受け継いでいったのでした。

今日は、召天者記念礼拝と言うことで、礼拝をささげています。この東大阪キリスト教会で信仰生活、教会生活を送られた方々の写真が飾られています。そのお一人お一人に信仰の物語があり、神の守りのうちに生きられた人生があったのだと思います。神がこのお一人お一人に何を約束され祝福を与えられたのかは知るべき由もありませんが、教会生活を送られ神の導きと守りのうちにその生涯を送られたのだと言うことは、想像できます。今は天国で、現世に生きる私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっているのではないでしょうか。

パウロが、アブラハムと言う人をローマのキリスト信徒に語り掛けたと言うことは、信仰の原点に立ち返ってほしかったからではないでしょうか。アブラハムがそうであるように、私たち一人ひとりにも、いわば信仰の原点というものがあるのだと思います。皆さんは、神の祝福の約束の中で神を信じ、主イエス・キリストを信じる信仰が与えられたのだと思います。そしてそこには希望があったのではなかったでしょうか。

この世の不条理、現世での嘆きや苦しみの中にあっても尚、信仰の原点に立ち返ることによって、神の祝福の約束に立ち返ることによって希望を見失わずに現世での信仰生活、教会生活を送っていくことができるのではないでしょうか。アブラハムのように不可能だと思えることもそこに神の祝福の約束があると信じるのなら、神の約束は実現されるのだと信じたいと思います。信仰の原点に立ち返ること、神の祝福の約束に立ち返ることそれは、現世に行き、右往左往しながら嘆きや苦しみの中で生きている私たち一人一人の道しるべとなり、なおも望みを抱く信仰へと導かれていくことになるのではないでしょうか。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙51節)。

(柴田良和)


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存在の源 [説教全文]

ローマの信徒への手紙417

 

「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(新共同訳)

 

まだ、暑い日々が続いていますが、秋の気配を感じるこの頃です。セミの鳴き声が聞こえなくなり、昨日は赤とんぼが飛んでいるのを見かけました。夏の疲れが出やすい時期でもありますので、体調には十分気をつけて過ごしてまいりましょう。

古代の神学者の一人であるミヌキウス・フェリクスと言う人の文章をよんでみたいとおもいます。「どういうことか。季節と収穫とが恒常的な変化によって区別される時、その主宰者であり父である者の存在を証明しているのではなかろうか。春はその花によって、夏はその収穫によって、秋の有難い実りが、そして冬の必需品オリーブが。この秩序は、もしも最大の理性によって支えらえているのでなければ、容易に混乱してしまうだろう。どれほどの摂理によって、冬だけが氷によって凍てつかせたり、夏だけが灼熱によって焼きつくしたりしないように、秋と春の温暖な気候を間に入れるために、くり返しもどって来る一年の歩みによって、目に見えぬ穏やかな変化が作られていることか。」(田川健三著「キリスト教思想への招待」)

夏であれば、早く涼しくなればいいのに。冬になれば、早く暖かくなればいいのに。と思うのが人情ですが、自然はその季節の変化によって、作物が育ったり、魚が育ったり、生き物が育つには暑さや寒さはなくてはならぬものだそうです。そのような絶妙な自然のバランスによって私たち人間もその恩恵に預かっているというわけです。

人類にしてもユヴァル・ノア・ハラリという歴史学者が書いた「サピエンス全史」という本の中で、何万年、何十万年も前は、私たちである現代人と違う霊長類が多く生存していたようです。たとえばネアンテータル人とか。その中で生存競争に勝って生き残ってきたのが、現代人であるホモ・サピエンスという霊長類だそうです。

日常の生活から少し意識を変えて自分と言う存在に目を向けてみるとき、歴史の不思議さ、自然の不思議さに気が付くのではないでしょうか。そしてそこに創造の神、歴史を導かれる神の人間に対する好意を感じるのではないでしょうか。人間の行き過ぎた自然破壊は、その神の好意を無駄にするものだと思います。

さて、パウロはローマのキリスト信徒に向けて手紙を書きました。まだ、顔と顔を合わせていまだ会ったことのない人たちでした。しかし、ある程度のローマのキリスト信徒の人たちの状況は分かっていたのだと思います。ローマのキリスト信徒の中には、パウロがこれまで伝道旅行で訪れた地中海世界の様々な都市にいるキリスト信徒の人たちと同じく、ユダヤ教徒のキリスト信徒と異邦人のキリスト信徒が共に信仰生活を守っていたものと思われます。キリスト教はユダヤ教が土台となっていますので、パウロが活動した当時は、旧約聖書(ヘブル語聖書)が唯一の教典でした。旧約聖書の中でもアブラハムと言う人物は、ユダヤ教徒から「信仰の父」と尊敬されている人物です。そのアブラハムは、「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と神から言われた人物であることを旧約聖書の引用からパウロは語ります。

「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」という神からの言葉は、アブラハムに子供がいなかった時、子供が生まれる可能性がほとんどない時にアブラハムに神が言われた言葉です。現実にはほとんど可能性がないだろうことを神はアブラハムに言われたのでした。しかし、にもかかわらず、アブラハムはこの神の言葉を信じたのでした。実際に聖書には、アブラハムの妻であるサラに子供が生まれ、イサクと名付けられ、その子供であるヤコブ(イスラエル)へと信仰が受け継がれていきます。

聖書には、神のことが語られるとき、多くの個所で「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現がなされています。それは、アブラハム、イサク、ヤコブが信仰した神であると言うことです。その神は、イスラエル人、ユダヤ教徒だけの神ではなく、「多くの民の父」であることをパウロは弁証、説明します。ローマのキリスト信徒、ユダヤ教徒、異邦人の共通の信仰の父であるアブラハムの信仰にならうようにとパウロは、ローマのキリスト信徒に語っているのだと思います。

十人十色と言われるように人は十人いれば十人が違った考えや思いを持っています。しかし、共通の信仰に、すなわち世界を創造され、歴史を導かれる方が神であると信じる信仰、アブラハムの信仰に立ち返ることによって、お互いの違いを乗り越えていくことができるのではないでしょうか。

(柴田良和)


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信仰によってこそ [説教全文]

ローマの信徒への手紙416

 

従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。(新共同訳)

 

主イエスが十字架に架かられてから、失望の中にいた弟子たち、仲間たちに復活の主イエスが姿を現されたことを信仰の告白として言い表し始めました。弟子たちは、イスラエルの首都であるエルサレムの神殿で集まって祈っていましたが、弟子たちに聖霊が下り、主イエスをキリスト、メシア、救い主であるとの告白を世間に広め始めたのでした。このような状況を面白くないと思っていたのは、エルサレムにいる支配者、権力者たちでした。生前のイエスが民衆に人気があり、自分たちの地位を危うくさせられるかもしれないと思っていた人たちだったからです。権力者たちは、主イエスの弟子たちや仲間たちが、イエスがキリストであると言い広めたことによって集まって来ていた信者たちを迫害し始めました。この時、パウロもエルサレムにいて、権力者たちの側に立ち、キリスト信者の迫害に加担していたのでした。エルサレムにいたキリスト信者たちは、迫害を逃れて、イスラエル中、また、地中海世界中に広まって行ったのでした。

パウロは、迫害を逃れて行ったキリスト信者を逮捕するためにイスラエル中に追いかけて行ったのでした。その途中で、復活の主イエスと幻のうちに出会うこととなります。主イエスが復活されたことをコリントの信徒への手紙一では、次のように書かれています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(コリントの信徒への手紙一153節)。

パウロが、幻のうちに復活の主イエスに出会ったことは、自身が使徒であると言うことの根拠となる出来事でした。パウロ自身がどういう人であったのかは、フィリピの信徒への手紙に簡潔に自己紹介されています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙35節以下)。パウロが、ユダヤ教徒以外、つまり異邦人の人たちに伝道したのは、自身が今までこだわって来ていた律法の問題と深くかかわっていることは確かなようです。

ローマのキリスト信徒の中には、律法を大切にするユダヤ教徒とそれほど律法を重要視しない異邦人キリスト信徒がいました。それらの人たちの間で律法の規定をめぐって争いが起こり反目し合うことを何よりもパウロは問題視していたのだと思います。それゆえ、共通の教典である聖書、旧約聖書の中で最も重要視されている人物であるアブラハムについて言及しているのだと思います。確かにアブラハムの物語の中には、律法につながる割礼と言う宗教儀式が言及されていますが、パウロはそのことよりも、神が先立ってアブラハムに対して祝福の約束をされたことを信仰の原点と信じていたのだと思います。律法は人が大切にされるために神から与えられたものであって、律法を守るために人がいるわけではありません。律法の儀式や文字ではなく、聖霊による生きて働かれる神への信仰こそが私たちを生き生きとさせてくださるものだと思います。神の祝福の約束を信じたアブラハムの信仰は、私たちの信仰の原点でもあるのだと思います。

(柴田良和)


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