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律法が招くもの [説教全文]

ローマの信徒への手紙415

 

実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。(新共同訳)

 

旧約聖書の中で、有名な人物を列挙していくと次のような人たちを知っているのではないでしょうか。アダムとエヴァ、カインとアベル、ノア、アブラハム(アブラム)、イサク、ヤコブ(イスラエル)、モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、ソロモン、ヨブ、エズラ、ネヘミヤ、そして、預言者と言われるイザヤ、エゼキエル、ダニエル、ホセアと言ったところでしょうか。女性では、ルツとエステルがいます。それぞれの人物のエピソード(物語)を思い起こされるでしょうか。旧約聖書の中で、最も重要な人物としてアブラハム(アブラム)という人がいます。アブラハムは、ユダヤ教徒、イスラエル人から「信仰の父」とも呼ばれ尊敬されていた伝説的な人です。アブラハムに関するエピソード(物語)は、創世記に多く書かれています。実際、聖書の中では、ユダヤ教徒、ユダヤ民族、イスラエル民族の祖先となった人が、アブラハムです。アブラハムの子がイサクであり、イサクの子がヤコブであり、このヤコブが後に名前を変えてイスラエルと名乗りました。ヤコブ(イスラエル)の十二人の子供が、イスラエル十二部族の祖先でした。

新約聖書の中にも、アブラハムの名前がたびたび出てきています。バプテスマのヨハネの言葉として、「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタイによる福音書38節以下)があります。また、イエスが言われた言葉として、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイによる福音書/8 11節)、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイによる福音書 2232節)などがあります。

ローマのキリスト信徒の人たちも旧約聖書を読んでいました。旧約聖書に登場する人物のことは、良く知っていたのだと思います。ローマのキリスト信徒の中にはユダヤ教徒もいましたから、当然の事としてアブラハムのことも聖書を読んでよく知っていたのだと思います。パウロは、この旧約聖書の最も重要な人物に関して、パウロ自身がどう思っているのかをローマの信徒の人たちに語ることによって、自身がどのような考えを持ち、信仰をもっているのかを知らせようとしたのだと思います。それは、何々せねばならないと言った、おきて、決まり事、つまり、律法によって生きて行くのではなく、アブラハムに最初に与えられた神からの祝福の約束があったことを強調して語っているのだと思います。

考えてみれば、何々せねばならないと誰かが言い出した時、また違う誰かが何々せねばならないと言った人同士が対立し合いそこには怒りが生まれて来るのではないでしょうか。本来、律法は人と人同士が仲良く平和に暮らすことができるようにと神から与えられたものでした。にもかかわらず、いつの間にか人はそのことを忘れ、いつの間にか律法を人が人を支配する道具にしてしまっていたのだと思います。人と人同士が仲良く平和に暮らす、その祝福の約束、神からの人に対する祝福を忘れたところでは、律法は怒りを招く者にしかならないのだと思います。すべてのことの上に神の祝福の約束が先立っていることを忘れないようにしたいと思うのです。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記127節以下)。神が人を創られた時もまた祝福が先立っているのです。

(柴田良和)


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神の約束 [説教全文]

ローマの信徒への手紙414

 

律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、いつ頃、どこで、ローマにキリスト信徒がいたことを知ったのかは分かりません。パウロはその半生で、大きな伝道旅行を三回に渡ってしていますが、その伝道旅行の途中でローマにキリスト信徒がいることを聞き及んだんでしょう。パウロが伝道旅行をした範囲は、古代ローマ帝国が支配する地中海世界に限られていました。パウロとしては、古代ローマ帝国の首都であるローマを訪れたいと思っていた事でしょう。そのようなことをローマの信徒への手紙の中でも書いています。

新約聖書の中には、パウロの手紙が多く残されていますが、ローマの信徒への手紙以外は、一度は訪れたことのある都市でした。パウロは未だ顔と顔を合わせて会ったことのないローマにいるキリスト信徒に手紙を書き送ったのでした。たぶん、ローマの信徒の中に知り合いがいてその人宛に手紙を託して送ったのでしょう。パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、第三回伝道旅行の途中の比較的落ち着いた時期に書かれたものと言われています。未だ会ったことのない人たちに手紙を書いたわけですから、パウロは自身の自己紹介も兼ねて、これまでの伝道旅行の経験から纏まった文書を書いたものと思われます。

1章から11章までが、理論的な文書、12章以降が実践的な文書となっています。理論的な文書と言っても何か哲学的な文書ではなく、パウロがこれまで経験してきたことを土台として、聖書(旧約聖書)を読み込みながら、パウロがどのような信仰をもっているのかを信仰告白として表明している文書です。

イスラエル人、ユダヤ教徒は神の名を直接唱えることを基本的にしませんでした。それは、十戒にもあるように「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒めにも表れています。そこでよく「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方がされています。言うまでもなく、アブラハムが信仰した神、イサクが信仰した神、ヤコブが信仰した神と言う意味です。そういった意味ではアブラハムと言う人は、ユダヤ教徒にとって最重要人物でした。そのアブラハムを例にとって、ローマの信徒への手紙のテーマの一つである律法と信仰の問題をパウロは論じようとしています。

言うまでもなく、律法は、イスラエル人、ユダヤ教徒が守って来た神から与えられたとする掟です。ユダヤ教徒にとって律法を守ると言うことは最重要課題でした。パウロ自身も律法を全面否定しているのではありません。「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤの信徒への手紙324節)と律法の役割をパウロは語っています。しかし、律法を守ることによって、実際は律法を完全に守ることは不可能なことですが、律法が人々を幸福に導くためのものであることをいつの間にか忘れて、律法を守ることが目的となってしまっていたことをパウロは問題としているのだと思います。

神の祝福の約束、それはアブラハムに最初に神から与えられたものですが、その神の祝福の約束こそが大切なものであり、今、生きておられる神との関係を信じる信仰によって与えられるものなのだと思います。

パウロはローマの信徒への手紙の12章以下で、主に律法の食物規定、異教の神々にささげられた肉を食べてもよいかどうかで、多くの言葉を使っていますが、それは、ローマの信徒の中にユダヤ教徒もいて、また、異邦人キリスト信徒もいるという状況の中で語られています。そういった中で、律法が先立つのではなく、生きて働かれる神の約束が先立つのだと言うことを信仰の言葉としてパウロは語ります。

神の祝福の約束、それは私たちにもまた与えられているものであると信じたいと思います。

(柴田良和)


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信仰による義 [説教全文]

ローマの信徒への手紙413

                                                        

神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。(新共同訳)

 

聖書の登場人物の中で最も重要な人物の一人としてアブラハムがいます。このアブラハムの信仰が原点となって三つの宗教が生まれています。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム(イスラム教)です。これら三つの宗教の原点としてアブラハムの信仰があるわけですから、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム(イスラム教)は、アブラハムの宗教とも言われたりしています。

アブラハムの信仰から始まって、その信仰が子孫に受け継がれて、その流れとしてキリスト教も成り立っています。聖書では神の名を直接呼ぶことをせずにどのような神であるかを言い表します。それは、聖書の多くの個所で書かれている、アブラハム、イサク、ヤコブの神と言う言い表し方です。アブラハムの信仰が、その子であるイサクに受け継がれ、イサクの子であるヤコブに受け継がれたと言うことです。

パウロは、今日の個所で、ブラハムの信仰すなわち信仰の原点に立ち返ります。アブラハムが神から最初に啓示を受けたことが次のように書かれています。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。」(創世記121節以下)。「主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(創世記127節)。

アブラハムは、神の声に聞き従って神の祝福の約束を信じたのでした。次のように書かれています。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記151節以下)。

耳を澄ませて、神の声を聞き、それに従うとき神の祝福の約束がそこにあります。そのことをアブラハムの物語から私たちは知っていくのではないでしょうか。

今日は、聖書の引用が多いですが、もう一か所引用します。今日の個所の少し前のパウロの言葉です。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」(ローマの信徒への手紙41節以下)。

アブラハムがそうであったように、神の声を聞いたときその声に従う、つまり、祝福を約束されている神にすべてをゆだねて生きるそのことをパウロはローマの信徒の人達に言いたかったのであろうし、私たちにもまた語り掛けているのではないでしょうか。

(柴田良和)


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神の義の啓示 [説教全文]

ローマの信徒への手紙117

 

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新共同訳)

 

旧約聖書は、イスラエルの母国語であるヘブル語で書かれています。後に、古代ローマ帝国がイスラエルを支配するようになってから、古代ローマ帝国の共通語であるギリシア語に翻訳されました。パウロが生きていた当時は、キリスト信徒の間でも教典つまり聖書と言えば旧約聖書だけでした。パウロの時代のずっと後の時代になって、新約聖書がキリスト信徒の教典となり、旧約聖書と合わせて正典と言われる聖書になりました。ですから、パウロとローマの信徒との間で共通して持っていたのは、旧約聖書だけだったと言うことになります。パウロは青年の頃、学者から旧約聖書を学んだ人だったので、旧約聖書をよく読んでいました。パウロの生まれはイスラエルではありませんでしたが、ユダヤ人として育った人だったので、ギリシア語だけでなくヘブル語も読むことができた人だったのだと思います。

今日の聖書の個所の鍵カッコの「正しい者は信仰によって生きる」という言葉も旧約聖書の言葉です。ハバクク書の2章4節の言葉です。パウロは自由に旧約聖書の言葉を引用しています。それは、パウロとローマの信徒の間で、共通の理解を得るためだったと思います。旧約聖書の言葉の引用だけでなく、アブラハムやダビデと言った旧約聖書で物語られている人物のことも引き合いに出してローマの信徒の人達に説明しようとパウロは工夫をしています。

福音とは、その中心は、神が共にいて下さっていると言うことです。命を慈しまれ、生きることを喜ばれる神が共にいて下さっていると言うことです。キリスト教ではその神が共にいて下さっていると言うことがキリストによって明らかにされたと言うことです。啓示とは、隠されているものが明らかにされると言うことです。イエスが福音宣教の活動される前にイエスを指し示す、紹介する人がいました。福音書ではバプテスマのヨハネと言う人です。このバプテスマのヨハネが、権力者を非難し、政治批判をしたために牢屋に捕まりました。この時、牢屋から弟子たちを送ってイエスがキリストであるのかどうかを尋ねる場面があります。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」」(マタイによる福音書112節以下)。

イエス・キリストが命を慈しみ、生きることを喜ばれる方であると言うことを福音書記者は信仰告白しています。イエスが人として生きられたと言うことは、命を慈しまれ、生きることを喜ばれるという神の義が明らかにされたと言うことです。つまり、キリストによって隠されているものが明らかにされたと言うことです。命を慈しまれ、生きることを喜ばれる神が共にいて下さっているということを私たちは、イエス・キリストがいて下さっていると言うことを信じることによって、神の義、すなわち神が正しい方であると信じるのです。

命が脅かされ、生きることに困難を感じる出来事がそれこそいやと言うほど耳にする世の中です。しかし、そのような世の中であるからこそイエス・キリストによって隠されていたものが明らかにされているのですから、命を慈しまれ、生きることを喜ばれる神の義をみうしなうことなく、生きて行ければと思います。

(柴田良和)


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神の力 [説教全文]

ローマの信徒への手紙116

 

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(新共同訳)

 

パウロは、その半生に大きな伝道旅行を三度に渡ってしています。古代ローマ帝国が支配する町々、村々を訪れています。その一つに現在はギリシア共和国の大きな町であるアテネがあります。パウロはそのアテネの町を訪ねました。

その時のことが、使徒言行録17章16節以下で書かれています。アテネは、現代でも哲学思想の基礎となっているギリシア哲学の盛んなところです。使徒言行録には、「また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。」(使徒言行録1718節)と報告されています。

パウロがその伝道旅行で、基本に語っていたことが何であったのかが分かります。それは、「イエスと復活についての福音」でした。パウロは、キリスト信徒になる前は、キリスト信徒の迫害者でした。多くのキリスト信徒を逮捕することに加担し、エルサレムだけにとどまらず、迫害を逃れてイスラエル中に散って行ったキリスト信徒を逮捕するために追いかけて行ったのがパウロでした。しかし、その追いかけている途中で、幻のうちに復活のイエスとパウロは出会ったのでした。それ以降、パウロのキリスト信徒としての歩みが始まります。この復活のイエスと出会ったという経験からパウロは、自分が使徒のひとりであると自認していたのでした。ですから、パウロにとってイエスの復活と言うことは、経験に基づく疑いようもない事だったのでしょう。アテネで、パウロは様々な事を語っていますが、その中心は「イエスと復活についての福音」でした。

もう十年ほど前のことでしょうか。知り合いの人から聖書研究会を開きたいので講師になってくれないかと頼まれました。快く引き受けて、梅田のある所の会場を借りて毎月一回のペースで聖書研究会が始まりました。参加者は5~6人でした。2~3年は続いたでしょうか。ある日、参加者の一人の方が、この方はキリスト教徒になってまだ日が浅い方でした。その参加者の方が「自分は復活のことが分からない」と言われました。伝統ある大きな教会の教会員の方だったので、もしかしたら、復活を当然の事として受け入れている周りのベテランの教会員の人たちに正直な自分の気持ちを打ち明けられなかったのかも知れません。

 

ほかの宗教でもそうですが、キリスト教でも死人がよみがえってその人にあったという人は、聖書の中以外では報告されていません。死んだ人に出会った人は、現代でも誰一人としていないのではないでしょうか。

これはキリスト教の大きなつまずきの一つです。犯罪人として無残な十字架刑で殺された方を神の子、神と信じること、またその方が復活したとすることは、現代人にとっては大きな疑問、つまずきの事柄なのだと思います。パウロが生きた古代の世界でも同じでした。パウロがアテネで「イエスと復活についての福音」を語った後のアテネの人々の反応は次のようなものでした。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」(使徒言行録1732節)。

復活は希望です。イエスが復活されたというのは私たちの希望なのです。命をいつくしみ生きることを喜ばれる神は、イエスを復活させられました。そのことを希望として信じるなら、私たちに救いをもたらす神の力となっていくのだと思います。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマの信徒への手紙109節)

(柴田良和)


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