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希望の源 [説教全文]

ローマの信徒への手紙1513

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、大きな伝道旅行を3回に渡ってしています。いずれも古代ローマ帝国が支配する地中海世界の中においてです。パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは3回目の伝道旅行の最後の頃だと言われています。もしかしたら、3回目の伝道旅行が終われば、パウロはローマのキリスト信徒に会うためにローマに行く計画を立てていたのかも知れません。ローマは古代ローマ帝国の首都でしたからローマを訪問することはパウロにとっても意義深いことだったののだと思います。しかし、パウロは自分が思っていたようにはローマに行くことができませんでした。3回目の伝道旅行の目的地であるエルサレムにそれまで、伝道旅行で困窮しているエルサレムにいるキリスト信徒のために集めた献金を届けようとしたのでした。しかし、エルサレムでそれまでパウロに敵対していた人たちによって、ローマの官憲に捕らえられ、自由を奪われたのでした。結局、ローマ皇帝に直訴するという形でローマに護送され、パウロが思っていた状況ではなかったですが、ローマのキリスト信徒に会うことができました。

ローマのバチカンは今では、カトリック教徒の総本山になっていますが、パウロが生きた当時は、一つのキリスト信徒の集まりにすぎませんでした。それでも古代ローマ帝国の首都ですからそれなりのキリスト信徒が集まっていたものと思われます。パウロがローマに護送され、ローマでの生活がどのようなものであったのかは、使徒言行録に少しだけ書かれていますが、詳しいことは分かりません。ローマの官憲による監視下にあったものと思われますが、比較的自由にキリスト信徒に会うことができたようです。

最近は、ほとんど日本映画しか観ないのですが、洋画で「クオ・バディス」という映画があります。パウロ以降のローマのキリスト信徒がどのような迫害にあったのかが描かれている映画です。キリスト信徒が、厳しい迫害にあったというフィクション映画ですが、実際にも権力者、ローマ皇帝から厳しい迫害をキリスト信徒が受けたという歴史的事実がありました。

ローマの権力者たちは、キリスト信徒の何を恐れて迫害したのか。興味のあるところですが、一つ言えることは迫害の中にあってもキリスト信徒はいなくならなかったと言うことです。それどころか、4世紀にはキリスト教は、古代ローマ帝国の国教になっています。国教になったことが以降のキリスト教にとって良かったのか悪かったのかは別としてです。

さて、パウロがまだ見知らぬローマのキリスト信徒に手紙を書き送ったのは、パウロが直接かかわっていないローマのキリスト信徒の人達と交流を持ちたかったからにほかないと思います。ローマのキリスト信徒の集まりは、ユダヤ人が中心になってできたものと思われますが、その中にはエルサレムの迫害で散らされていった人たちもいたのではないかと思われますが、古代ローマ帝国の支配領域は広大でした。それゆえ、古代ローマ帝国の首都であるローマも様々な人たちが集まっており、国際都市であったようです。生い立ちや生活習慣も違う人たちが集まっていたのがローマでした。当然、ローマの信徒の集まりの中にもユダヤ人もいれば、生い立ちや生活習慣の違う異邦人の人たちもいました。そのような人たちが、集うときにその違いを認め合う、同じ神を信じる信仰によってお互いを認め合うと言うことをパウロは手紙にしたためてローマの信徒の人達に言いたかったのではないでしょうか。そして、その象徴的なものの一つが異教の神々にささげられ市場におろされていた肉を食べるかどうかの具体的な問題だったのです。

お互いの違いを認め合うというのは、言葉にすれば簡単なようですが、実際は、難しいことではないでしょうか。しかし、神を信じる信仰によってお互いを認め合うことができるという平和な世界が訪れることの希望を持って歩んでまいりたいと思います。

(柴田良和)


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望みをかける [説教全文]

ローマの信徒への手紙1512

 

また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」(新共同訳)

 

今日の聖書の個所も先週に引き続き鍵カッコの個所は、旧約聖書の引用の個所です。

パウロは、ユダヤ人とユダヤ人以外、つまり異邦人が集うローマのキリスト信徒に手紙を書き送りました。その際、ユダヤ人信徒も異邦人信徒も共に読んでいた旧約聖書を手掛かりとして、手紙文書を書き送っています。実際、ローマの信徒への手紙の中では、多くの個所で旧約聖書の引用をパウロはしています。その旧約聖書の引用も、そのまま引用するというよりも、パウロ独自の解釈でもつて引用していることが多いようです。

今日の個所も、イザヤ書11章の引用、特に11章1節から10節の引用、ですが、そのままパウロが引用しているというよりも、パウロ独自の解釈で、キリストを指し示す言葉として解釈し、引用しているようです。イザヤ書のこの言葉の背景にはメシア待望というものがありました。ダビデ王に始まったイスラエル統一王国は、ダビデ王の子であるソロモン王の時代に繁栄を極めました。しかし、その後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、アッシリア帝国、新バビロニア帝国と言った周りの強い国に脅かされました。結局、北イスラエル王国も南ユダ王国も滅ぼされる訳ですが、イザヤと言う預言者が、イスラエルの人々を救うために神がダビデ王のような強い王、つまりメシア、ギリシャ語ではキリスト、救い主を送って下さることを預言したのでした。

このような歴史的背景から、イスラエルの民衆は、メシア、キリストを神が送って下さると言うことを待ち望んでいたのでした。そして、パウロの基本的な解釈では、そのメシアがイエス・キリストであると解釈したのでした。その際、パウロの解釈では、メシア、キリストはイスラエル人のためだけではなく、異邦人のためにも、つまり、すべての人のために神がメシア、キリストをおくって下さる、おくって下さったのだと信じていたのでした。

今日の個所の鍵カッコの中の言葉、「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」と書かれています。エッサイは、勿論、旧約聖書を丁寧に読めば分かることですが、マタイによる福音書の系図を読めば、エッサイは、ダビデ、ダビデ王の父親であることが分かります。そのことからも、人々は、特にキリスト信徒は、ダビデ王のように軍事的にすぐれた王ではないけれども、イエス・キリストが、人々を救う方、救ってくださる方であると信仰告白をしているのだと思います。

パウロにとってキリストに出会ってからの半生は、喜びと同時に辛いことしんどいことの連続だったのだと思います。パウロの半生は、ローマ帝国が支配する地中海世界でキリストの福音を伝える半生でした。大きな伝道旅行を3回もパウロはしています。多くの都市を町々を村々を訪れたことでしょう。現在残っているパウロが書いた手紙、あるいは書いたとされてきた手紙の宛先だけでもコリント、ガラテア、エフェソ、フィリピ、コロサイ、テサロニケといった町々があります。そのすべての町々のキリスト信徒の集まりに問題がなかったのかと言えば噓になります。それぞれが何らかの問題を抱えていたがゆえにパウロはわざわざ手紙を書き送りそれぞれの町々のキリスト信徒にアドバイスをしたり慰めたり、時には叱責ともとれるような励ましの言葉を綴り残しています。

そのようなしんどくてつらい時にも、パウロは共にいて下さっているイエス・キリストを信じ、すべてをキリストにゆだねていたのだと思います。すべての人を救ってくださるキリストに全身を預けるときそこには希望が見えて栗のではないでしょうか。

時に人生において、しんどいこと辛いことが次々に起こってきますが、そのような時にこそイエス・キリストが、共にいて下さっています。

(柴田良和)


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賛美せよ [説教全文]

ローマの信徒への手紙1511

 

さらに、/「すべての異邦人よ、主を賛美せよ。/すべての民よ、主をほめたたえよ」と言われています。(新共同訳)

 

今日の個所は、旧約聖書の詩編117編1節の引用です。ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、旧約聖書から多く引用して文書を書いています。パウロの文書だけでなく、新約聖書のパウロ以外の文書でも旧約聖書からの引用が多くなされています。この事は当然と言えば当然で、4世紀に正式に新約聖書の27巻がキリスト教の経典とされるまでは、キリスト教の中でも旧約聖書が教典として用いられていたからです。パウロが生きた時代は、新約聖書はありませんでした。旧約聖書が唯一の教典だったからです。

イエスは、日常的に話されていたのは、アラム語だったと言われていますが、現在、アラム語を話すことができるのは、2~3千人くらいだと言われています。その人たちも日常的にはアラム語を使っていないようです。旧約聖書の原典であるヘブル語は、読み言葉、書き言葉として長く用いられてきました。イエスが生きられた時代、パウロが生きた時代には、セプチュアギンタといって、別名、七十人訳と言って、へブル語からギリシャ語に翻訳された旧約聖書がありました。当時は、イスラエルを含む地中海世界が古代ローマ帝国に支配されていましたし、貿易などに使われる共通語としてギリシャ語が用いられていました。いずれにせよパウロは、ヘブル語を読み書きでき、ギリシャ語を読み書きできる人だったようです。現在残されているパウロの文書はすべてギリシャ語で書かれています。

キリスト教は、ユダヤ教の土台の上に成り立っています。キリスト教とユダヤ教がはっきりと別々の宗教として分かれたのは、パウロが生きた時代よりもずっと後の時代です。パウロは最後まで、ユダヤ教徒として生きた人でした。パウロが手紙を書き送った、ローマのキリスト信徒もヘブル語は読めなくとも七十人訳であるギリシャ語は読めたのでしょうし、旧約聖書を教典としていたのだと思います。それゆえパウロは旧約聖書の個所を引用し文書を書いたのだと思います。

私が子供の時は、めったに外国人の方は見かけなかったのですが、今、天王寺を歩いていると多くの外国人の方々を見かけます。電車に乗っているときも外国人の方を見かけないことはないくらいです。国際化が進んでいることの証拠なのだと思います。今後、ますます国際化が進んでいくことでしょう。その時に、対話をする、コミュニケーションをする手段を持っておくことは大切なことだと思います。

パウロは旧約聖書を手掛かりとしてローマの信徒の人達とコミュニケーションをとろうとしました。ローマの信徒の中には、ユダヤ人もいましたしユダヤ人以外の信徒、つまり異邦人もいました。パウロは旧約聖書の個所を手掛かりとして、異教の神々にそなえられた肉を食べるかどうかで不和が起こらないように共通の旧約聖書の言葉でもって、神へと目を向けるようにと信仰告白をしているのだと思います。今日の個所、引用文である詩編117編は短い文書ですので読んでみたいと思います。「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに/わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」(詩編117編)主イエス・キリストをとおして神である方を讃美する、世界中の方々と生きていることを喜び賛美する世界が訪れるように祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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共に喜べ [説教全文]

ローマの信徒への手紙1510

 

また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、(新共同訳)

 

この世での苦しみを表現するのに日本では、四苦八苦と言う言葉があります。その中で、四苦とは、生老病死、つまり、生きることの苦しみ、老いていくことの苦しみ、病気になることの苦しみ、そして、死んでいくことの苦しみを指します。もともとは仏教用語だそうです。仏伝、つまりお釈迦さんの伝記に基づいているようです。お釈迦さんは、もともとは王子でした。お城の中で守られて何自由なく暮らしていた王子であるお釈迦さんがある日、お城の一つの門から出てみるとあわれに年老いた老人を見ました。また、別の門から出てみるとうち捨てられた病人を見ました。また、別の門から出てみるとこれまたうち捨てられている死人を見たのでした。そして、また別の門から出てみると苦行をしている修行者隊を見たのでした。この経験からお釈迦さんは、何もかも捨てて、城を出て修行者になったと物語られているそうです。

生きると言うことは面倒くさいことなのです。いつの間にかこの時代、この土地に放り込まれて生きているのです。それは、苦しみの連続です。生きているそのこと自体が苦行をしている修行者のようなものではないでしょうか。老いていくと言うことは、この世のものを失っていくと言うことです。私ももう老年期ですが、この歳になると父や母といった家族が死に、友人や知り合いが死んでいく、それだけでなく目が見えにくくなり、耳が聞こえにくくなると言った体の衰えを感じるこの頃です。病気が苦しいものであるというのは言うまでもない事です、人間である限り病気にならない人はいないのではないでしょうか。そして、最後は死が待ち受けているのです。

このような人間の運命とでもいうべき一生は、キリスト教徒であれ、何教徒であれ、あるいは無宗教者であれおとずれる人生です。そのような人間の人生に対して、聖書は語り掛けます。今日の鍵カッコの言葉です。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」

主の民と言う言葉は、イスラエル人、ユダヤ人のことです。そして、異邦人と言うのは、それ以外のすべての人々のことです。鍵カッコで書かれているというのは、旧約聖書の引用と言う意味です。もともとの言葉は、申命記32章43節からの引用だと言われています。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロもまた四苦八苦の人生を生きた人です。しかし、キリストと出会ってからのパウロの人生は、勿論、四苦八がなくなったわけではありませんが、生きる希望が与えられたのではないかと思うのです。

キリストであるイエスは、生前、様々な人たちと出会われ、共に生活されました。その中には、生きるのに困難を抱えている人たちが多くいました。貧しい人たち、病気を抱えている人たち、時には死んだ人たちもいました。そのような人たちをイエスは一人一人と親身になってかかわられ、いやされていったのでした。いやされるというのは、生きる希望が与えられていくと言うことです。生きる希望は喜びへとつながっているのです。「喜べ」と言うのは、「生きよ」と言う神の語りかけです。今、生かされて生きていると言うことへの喜びです。神は決して無意味な苦しみ、四苦八苦を人間に与えられることはないのだと思います。私たちが、今、受けている苦しみの背後には必ず意味があるのだと思います。そして、その背後には、すべての人が希望を持って生きることができる「生きよ」と言われる神の思いがあるのではないでしょうか。すべての人が、この世で喜んで生きることができる世界を待ち望みつつ、祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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垣根を越えて [説教全文]

ローマの信徒への手紙159

 

異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。(新共同訳)

 

ユダヤ教は、一人のイスラエル人の信仰から始まっています。アブラム、後にアブラハムと名付けられた人の信仰です。そのアブラハムの子、イサク、その子ヤコブへと信仰は受け継がれました。ヤコブは後にイスラエルと名前を変え、その子たち十二人の子たちの子孫が、イスラエル人と呼ばれるようになったのでした。ユダヤ教徒の神は、ヤハウエと言う名を持っていましたが、直接神の名を唱えることが畏れ多いと言うことで、聖書の中では、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言う言い方をされています。アブラハムが信仰した神、イサクが信仰した神、ヤコブが信仰した神が、イスラエルの神であり、ユダヤ教徒の神であり、そして、キリスト教徒の神です。

なぜ、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言う言い方をしたかと言うと、現代もまたそうですが、古代の世界でもまた、それこそありとあらゆる神々がいたので、イスラエス人が自分たちの神を言い表すのにそのような歴史に基づいた神を言い表したのだと思います。イスラエルの歴史では、出エジプト、モーセの律法、王国時代、バビロン捕囚と言った重要な歴史がありますが、そのような歴史の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神」の信仰を受け継いできたのがユダヤ教であり、ユダヤ教徒です。神に選ばれた者としての自負を持っていましたが、その自負が自分たちは清く、正しく、偉いという間違った意味での選民意識を持ってしまったのだと思います。イスラエルの人たちが神に選ばれたのは、神の恵みと慈悲をすべての人たちにその神を伝えるという使命が与えられていたと言うことを意味するのだと思います。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロもまたユダヤ教徒としての自負を持っていた人でした。パウロ自身、誰よりも熱心にユダヤ教を信仰していたと語っています。しかし、キリスト、復活のイエスに出会った後は、なぜ自分が神に選ばれてユダヤ教を信仰しているのかその基本に立ち返ったのではないかと思うのです。ユダヤ教徒だけの自己満足に終わらずに、日頃から排除し差別していたユダヤ教徒以外の人たち、異邦人と呼ばれる人たち、つまり、すべての人たちに神の恵みをキリストを通して告げ知らせるという使命に立ち返ったから、パウロの半生はあったので絵はないかと思うのです。

今日の個所の鍵カッコにあるパウロの旧約聖書の詩編の引用である「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」は、私たちが手にしている詩編では、「主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。」(詩編18 50節)と書かれています。神をほめたたえ、神をほめ歌い、神に感謝をささげると言うことは、ほかならず、神の恵みをすべての人に伝えると言うことです。

ローマのキリスト信徒の集まりの中には、ユダヤ教徒の信徒と異邦人の信徒がいました。異邦人の信徒たちは、それまでの習慣どおり、異教の神々にささげられ市場に卸された肉を食べていました。一方、ユダヤ教徒の信徒たちは、律法違反、特に偶像崇拝のおそれがある肉を食べることを嫌いました。実際、ローマの信徒の集まりの中で肉のことでどれだけ深刻な対立があったのかどうかは、分かりませんが、パウロがこれまで伝道旅行をしてきた経験から、少なからず信徒の集まりの中で肉の問題が不和の原因になっているだろうことを予測したことは想像に難くないことです。律法をたてにして、ユダヤ教徒の信徒たちが異邦人の信徒たちを軽蔑し、差別し、軽んじることを今日の個所でパウロは戒めているのだと思います。ユダヤ教徒の信徒たちが、異邦人たちが神の憐みと恵みゆえに神をほめたたえるようなふるまいをするように勧めているのだと思います。

私たち日本人は、いわば異邦人です。キリストの福音が私たちに告げられるのにどれだけ多くの方たちの気遣いと配慮があったのかを知っていくことは大切なことだと思います。そしてそのことを知ったなら、私たちもまた、神の慈しみと恵みを他の人に伝え、周りの人たちが神をほめたたえるふるまいをしていきたいものです。

(柴田良和)


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