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小さな種から [説教全文]

マルコによる福音書4章2634

 

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(新共同訳)

 

おはようございます。一年以上講壇をあけてしまいましたが、本日より復帰させていただきます。闘病中は皆さんにご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そして、いつもお祈りで支えていただき感謝します。今後もリハビリは続きます。今後もどうぞお祈りください。

今日はまた、ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝です。二千年余り昔のエルサレムで、集まった人々に聖霊が下り、世界ではじめの教会が誕生した日、いわば「教会の誕生日」です。みなさんと教会の誕生日を祝うことができる幸いを感謝します。

今年度は、マルコ福音書の中から、マルコの特殊資料というものをとりあげてまいります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書の中で、マルコだけが書いている文章が、マルコの特殊資料となります。つまり、他の3つの福音書と違って、マルコが独自で伝えたいと思ったメッセージが表われてきます。マルコは四つの福音書の中では最も時代の古いものといわれています。イエスさまの時代に一番近い時期に書かれたマルコの福音書は、イエスさまの姿を素直に表していると思われます。みなさんとご一緒に、飾りのないイエスさまの姿を見つけていけたら幸いです。

さて、復帰第一回の説教は、イエスさまのたとえ話でも大変有名な、からし種のお話です。からし種の話に入るまえに、イエスさまがたとえ話を使われるということについてですが、イエスさまは、集まってくる群衆にはたとえ話で語られ、ご自分の弟子たちにはその意味を細かく語って聞かされたということです。たとえ話が示している神さまのみ言葉を、すべての人に直接語ることはされなかったのです。

イエスさまは「聞く耳のある者は聞きなさい」とよく言われましたが、たとえ話も、よく考え、心の耳を澄まして聞かないと、意味がわからないものです。逆に、耳を傾け、心を傾けて、よくよく聞くならば、そのメッセージは直接的な言葉で語られるよりもずっと豊かに、鮮やかに聞こえてくるものなのかもしれません。

さて、みなさんは最近、種まきをすることがありましたか? 私は園芸が趣味だったので、福山でも東京でも、毎年、春と秋になると、花や野菜の種を蒔いて楽しんでいましたが、都会の大阪に来てから種まきとはご無沙汰していましたが、今年は牧師館のベランダに。福山では毎年、なすびやミニトマトなどの食べ物を盛んに栽培しています。収穫したら、大好きなイタリアンの簡単な料理にして楽しみたいと思います。

イエスさまのこのたとえ話は、日本人にとってはあまりなじみのない、からしの木、グリーンマスタードを取り上げていますが、イスラエルの方ではとてもポピュラーな草なのだと思います。日本人にとっては、ヨモギなど、道端に生えていて食べられるものに当たるのかもしれません。でも、最近は道端のヨモギをつんで食べる人はあまりいなくなりました。

この「からし種」ですが、すでにご存じの方もあると思いますが、「からしの木」と言われるグリーンマスタードは、実は木ではなく、草、あるいは野菜の一種です。芽生えてからだいたい3~4年が寿命なのですが、土が合えば、こぼれ種でどんどん増えます。私は福山教会にいるときに、当時、大先輩の牧師にお庭のからしの木をいただいて、福山教会の庭に植えました。すると、3年後には2階にあった教会堂の窓から頭が見えるぐらい、約4mぐらいにまで成長しました。今日の聖書に書かれている通り、その枝には、日陰を求めて飛んできたすずめたちがとまっていました。近所の人たちが通りすがりに「これはなんの木ですか?」と聞くので、「からしの木です。でも、木じゃなくて草なんですよ」と言うと、びっくりして眺めていくのでした。

その4mにもなるからしの木の種は、本当に小さな小さなものです。それは、砂場の砂よりもさらに小さく、ちりのようにフッと吹けば飛んでしまうものです。そんな小さな種から、4mにもなる草が生えると言うのは驚きです。みなさんはからしの木を見たことがありますか? マスタードですから、菜の花の仲間です。おなじみの菜の花を大きく拡大したような姿形をしていて、初夏に黄色い細長い花をいっぱいに咲かせ、夏には種がいっぱい入った筒状のさやを実らせます。私にからしの木をくださった先輩牧師は植物学者のような方で、さやの中の小さなからしの種を虫めがねでご丁寧に数えたそうですが、1つのさやの中に800個あまりの種が入っていたそうです。びっくりしました。

そんなからし種のたとえ話を用いて、イエスさまは何を話そうとされていたのでしょうか。小さな種からやがて大きなからしの木が育ち、鳥が宿るほどになる。これが神の国の現実であると言われるのです。みなさんは、このからしの木のイメージから、何を聞き取っておられるでしょうか。

私はこのからし種の話は、私たちがたとえ小さな存在であるとしても、私たちのできることは小さなことでしかないとしても、神さまは私たちを思いのほか大きく用いてくださるのだ、という希望の言葉として受け取っています。東京の恵泉教会の少年少女たちが「からし種のうた」というのを作って歌っていましたが、「ぼくたち小さなからし種」という歌詞ではじまる歌でした。わたしたちの存在がからしの種にたとえられていると考えての歌だと思いました。

小さな種が芽を出し、大きく育って花を咲かせる、ということは、わたしたちを励ますうれしいメッセージではないでしょうか。小さな種が芽を出し、成長して、花を咲かせ、夏の暑さの中では人びとに涼しい日影を作り出すのです。私たちも小さな種から芽を出し、伸びていくからしの木です。たとえ小さくても、いいではありませんか。のびのびと自分らしく、花を咲かせていきたいものです。

(中村尚子)


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罪からの解放 [説教全文]

ローマの信徒への手紙612

 

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。(新共同訳)

 

皆さんは、バプテスマ(洗礼)を受けて日のことを覚えておられるでしょうか。わたしは、もう四十年以上前のことなので、何年に受けたのかが定かではありません。確か、十九歳か二十歳の時だったので1980年のことだと思うのですが、定かではありません。しかし、不思議と日にちだけは覚えていて、4月17日の日曜日、ちょうど復活祭(イースター)の日でした。当時は平野教会に通っていたのですが、平野教会のO牧師がまだ按手礼を受けていないと言うことで、堺教会のI牧師からバプテスマを受けました。バプテスマは、水に沈んで、起き上がるというキリスト教の儀式ですが。当時のわたしは、キリスト信徒になるための通過儀式に位しか思っていませんでした。水に沈むと言うことは、古い自分に死んで、起き上がることによって新しい自分に復活するということをずいぶんと後になって知りました。いわば死んで復活、甦ると言うことを宗教儀式によって言い表しているわけです。それは、体で表す信仰告白だとも言われています。宗教改革までは、さまざまな儀式が教会(カトリック教会)で行われていましたが、宗教改革以後は、プロテスタント教会ではバプテスマ(洗礼)と主の晩餐式(聖餐式)のみが宗教儀式(礼典)として残されています。

パウロは、バプテスマ(洗礼)について次のように言っています。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6 4節以下)。パウロ自身が、いつどのようにして誰から洗礼(バプテスマ)を受けたのかと言うことは、新約聖書には報告がありません。しかし、パウロは何人かの人たちに洗礼(バプテスマ)を授けてとの報告はあります。

バプテスマを受けたからと言って、その人が変わるわけではありません。それは、それからの人生を、キリストを信じ、神と共に歩むという決断をする信仰告白なのです。パウロにとって、バプテスマ(洗礼)とは、イエスに起こった受難と死の出来事を自分のこととして受け入れると言うことであり、私たちにとって、バプテスマ(洗礼)を受けると言うことは、キリストの受難と死を思い起こし、神に信頼し、神と共に生きて行くという信仰の決断をすると言うことなのだと思います。

バプテスマはまた、今生きている私たちの人生に起こることへの先取りとして信仰告白をしていると言うことだと思います。私たちは、生まれ、生きて、死んでいくという運命を人間である限り受け入れていかなければなりません。しかし、死ぬと言うことの先があると言うことをバプテスマ(洗礼)によって言い表し、信仰告白しているのだと思います。私たち人間は例外なくキリストによってすでに救われているのです。それが罪の支配から解放されているというという信仰の現実です。

しかし、だからと言って罪の誘惑から免れる人が一人もいないのもまた現実です。聖書には、「「・・欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙115節)とありますが、パウロもまた人間として心の葛藤を抱えていました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマの信徒への手紙718節以下)。

信仰者の現実は、神に信頼し、自らをゆだねるという信仰によって、いまだ救われつづけなければならないという現実があるのであるのです。神の声に耳を傾けながら、キリストによって神が共にいて下さっていると言うことに信頼し、自らのすべてを神にゆだねる信仰が与えられ続けていけるように祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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キリスト・イエスに結ばれて [説教全文]

ローマの信徒への手紙611

 

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(新共同訳)

 

池田晶子という哲学者の方がおられます。なんでもご本人は哲学者ではなく文筆家と呼ばれることを望んでおられました。2007年に亡くなられましたが、「14歳からの哲学」という著書で有名な方です。この池田晶子さんの著書に「知ることより考えること」という著書があります。その著書のあとがきに次のように書かれています。「『知ることよりも考えること』とは、決して知ることの否定ではありません。考えるとは、本当のことを知るために考えるという以外にはあり得ない。しかし、きょうび「知る」とは、外的情報を(できるだけたくさん)取得することだとしかおもわれていない。取得するばかりで、誰も自ら考えていない。だから世の中こんなふうなのであります。」。なかなか辛辣な言葉ですが、確かに現代のわたしたちの周りでは情報に溢れています。知ろうと思えば、様々な本が手に入りますし、テレビやラジオをつければ情報が流れて来るでしょう。パソコンが使える方は、インターネットで調べれば、知りたい情報を知ることができます。

しかし、一つの物事や出来事をじっくりと考えると言うことをあまりしていないのが私たちの現状なのではないでしょうか。知り得た情報を鵜吞みにするのではなくじっくりと考えてみるということが、自分にとっても社会にとっても大切な事なのではないかとこの池田晶子さんの言葉から思わされます。

さて、今日の聖書の個所であるパウロの言葉は、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」という言葉です。ここでパウロが勧めている「考えなさい」という言葉は、ギリシア語の言語では、ロギゾマイという言葉が使われています。この言葉は、ロゴスという名詞が動詞となったものです。このロゴスと言う言葉は、ヨハネによる福音書の最初の言葉である「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書11節)という文章で訳されている「言」です。この「言」と訳されている「ロゴス」という語には「理性、数を数えること」という意味が基本にあるから、この動詞は数学、経済用語として「数える」の意味が基本にあるようです。そこから比喩的な意味となって「考慮する」「熟考した上でそういう結論を出す」「丁寧に、よく考慮して、結論を出す」の意味になるということです。パウロはここでローマの信徒の人たちに「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」ということを、その信仰の現実をしっかりと考えなさいと語っているのだと思います。

そしてその前提として「あなたがたも自分は罪に対して死んでいる」とパウロは言います。パウロは決して人間の罪の現実を軽くは見ていませんでした。そのことは、ローマの信徒への手紙の1章の言葉からうかがえます。人間の悪の現実から神に対する罪に支配されている人間の現実をパウロは良く知っていたものだと思われます。悪あるいは悪徳に関しては、パウロは次のように言っています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(ローマの信徒への手紙1 29節以下)。このような悪とされる思いから解放されると言うことが、「罪に対して死んでいる」と言うことなのだと思います。 

キリスト教だけでなく宗教と関係ない一般社会でも悪は、犯罪として罰せられます。しかし、悪と言っても一般社会では法律に定められた犯罪にしかに認められません。一般社会での悪は、相対的なものであり、時代により、国や地域により、社会状況により異なっています。しかし、パウロにおいては、悪の結果としての罪を、法律を守らない犯罪としてではなく、神が生きておられると言うことを前提として、その神と自分との関係がどうであるのかが問題とすると言うことです。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編143節)。と詩編で書かれているように、人間の現実は、神との関係が破壊されているとパウロは考えるのです。

そのような人間の現実に対して、人間は救われなければならないとの信仰が生まれます。それゆえ、イエスはキリストである信仰告白し、キリストと結ばれているという信仰の中に生きていけるようにと祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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ただ一度 [説教全文]

ローマの信徒への手紙610

 

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。(新共同訳)

 

パウロがローマの信徒の人たちに手紙を書き送ったと言うことは、ローマの信徒の人たちの中にパウロのことを知っていた人がいたからなのだと思われます。そうでなければ、パウロは手紙を書き送ることはできなかったでしょう。勿論、手紙を書き送った時、ローマをパウロは尋ねたことがなかったので、そんなに詳しいローマの信徒の人たちの状況は知らなかったのだと思います。しかし、三回目の伝道旅行の途中だと思われますが、地中海世界を当時支配していた古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることをパウロは聞き及んだのでした。

当時の地中海世界には、様々な宗教や思想があり、その数だけ世界観、歴史観があったものと思われます。例えば、仏教などは、輪廻と言って生と死を繰り返すと言った宗教観、歴史観があると言います。それと同じように歴史が繰り返すという歴史観が地中海世界にもあったものと思われます。キリスト教の歴史観は、そういった繰り返す歴史ではなく、始まりがあり、終わりがあるという歴史観です。

パウロは、歴史の終わりが間近に迫っていると言うことを信じていたようです。明日にでも歴史が終わり、主イエス・キリストが再びこの世に来られ今のこの世界の歴史が終わり、新しい世界が始まると信じていたようです。19世紀のドイツに神学者であり牧師であるブルームハルトと言う人がいました。この人には、面白い逸話があります。なんでも、主イエスがこの世に再び来られることを間近に信じていた人で、当時の乗り物と言えば馬車でしたから、再び来られた主イエスをお迎えするのにそのための馬車を用意していたというのです。このようなことができるのは、十字架に架かられ死なれた主イエスが、復活され、そして天に昇られ、そして神の下で生きておられると言うことを文字とおり信じていなければ、できないことだと思います。

歴史とか、時間と言ったものが何であるのかと言うことは、古今東西の思想家たちが色々と語っていますが未だ解明されていません。しかし、何であるかを知らなくても私たちは、今現在歴史の中に生きているのであり、時間の中に生きているのです。今の一瞬は、一瞬一瞬過去になり、二度と同じ今は戻ってこないのです。そのようなことを考えると、一瞬一瞬は二度と繰り返すことなく、歴史や時間には始まりがあり、終わりがあると言うことも納得できるように思います。

今日の個所で、パウロは「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれた」と書いています。もうすでに歴史の中で、キリストが死なれた、しかも一度死なれたことにより、私たちは罪の支配からキリストによって解放されたと信じる信仰が言い表されているのだと思います。それゆえ、私たち人間は、歴史と時間の中で二度と戻らない一瞬一瞬を生きていますが、その一瞬一瞬を再び来られる主イエスを待つように生きて行ければと思います。

聖書をお読みします。「戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。・・・あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」・・・それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。・・・だから、気をつけていなさい。一切のことを、前もって言っておく。」・・・「それらの日には、このような苦難の後/太陽は暗くなり/月は光を放たず/星は天から落ち/天の諸力は揺り動かされる。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。」(マルコによる福音書137節以下)

(柴田良和)


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牧師方針 2024年度 [牧師室通信]

中村尚子


昨年度は、丸一年ほぼ入院しており、ご心配、ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。今年度もしばらくはリハビリに要すると思われますが、できれば夏ごろから説教奉仕と祈祷会の奉仕に復帰したく思います。説教については、昨年する予定でしたマルコ福音書の中からマルコだけに書かれている特殊資料というものをとり上げていきたいと思います。四福音書の中で一番古いとされているマルコ福音書のメッセージをじっくりと聞いていきたいと思います。祈祷会は「聖書教育」のカリキュラムにそって読んでいきたいと思います。


柴田良和

 

説教では、昨年度はローマの信徒への手紙を読み進んできていますが、今年度もローマの信徒への手紙を読み進んでいきたいと思います。しかし、今年度は、ローマの信徒への手紙だけでなく、パウロがいつも旧約聖書を振り返っていたように旧約聖書の個所も説教したいと思います。それだけでなくパウロの他の手紙や福音書、新約聖書の中から任意に聖書箇所を選んで聖書を読んでいきたいと思います。説教の全体のテーマは「信仰の基本に立ち返る」としたいと思います。信仰の基本に立ち返ると言うことを皆さんと考えながら、これから私たちの教会がどう歩んでいくべきかを考えていきたいと思います。コロナがある程度終息してきていますので、何か教会の外に向けての活動もできればと思います。


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死者の復活 [説教全文]

ローマの信徒への手紙69

 

そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。(新共同訳)

 

パウロはユダヤ教徒でした。パウロとイエスはほぼ同年代に生きた人でした。当時のユダヤ教は、一枚板ではありませんでした。ユダヤ教と言っても様々なグループがありました。その中でも新約聖書に登場してくるのは、サドカイ派というグループとファリサイ派というグループでした。サドカイ派と言うのは、エルサレム神殿を拠点として、活動する貴族階級の人たちでした。それに対してファリサイ派と言うのは、庶民階級の人たちで宗教運動を起こしていた人たちでした。パウロは当時の有名な律法教師であるガマリエルと言う人に学んだファリサイ派の人でした。サドカイ派の人たちは、死者の復活はないと主張していました。一方、ファリサイ派の人たちは、死者の復活を信じていた人たちでした。パウロはファリサイ派の人ですから死者の復活を信じていました。

宗教的背景のない現代のわたしたちも死者の復活と聞くと何かおとぎ話のように聞こえるかもしれません。もう十年くらい前のことですが、あるグループが聖書学習会をすると言うことで、講師を依頼されたことがありました。女性の四・五人くらいのグループでした。ニ・三年は続いたでしょうか。ルカによる福音書を最初から最後まで読み終わり、ローマの信徒への手紙を読み進んでいました。ある日、そのグループの一人の方が、「わたしには復活が信じられない」とおっしゃいました。その方の属していた教会は、伝統のある大きな教会でしたので、教会の中で復活のことが分からないなどと言い出すことができなかったのでしょう。その小さなグループの中で、本音を言うことができたのだと思います。実は、私も神学校時代に復活に関する授業があり、その中で考えれば考えるほど復活のことが分からなくなり、修了論文のテーマがイエスの復活に関することで書きました。その論文では、福音書の復活に関することを中心に書きましたので、パウロが復活に関してどのように思っていたかまでは書くことができませんでした。

パウロがキリスト信徒になったのは、復活のイエスに幻のうちに出会ったからでした。そのことの様子が、使徒言行録には書かれています。実際、パウロはファリサイ派の教育を受けた人だったので、死者が復活すると言うことに関しては疑いようもなく信じていたのだと思います。パウロはこのように言っています。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」(コリントの信徒への手紙一1535節以下)。

パウロはファリサイ派の人でした(フィリピ35)。そして、ファリサイ派は、復活を信じていました(使徒238)。パウロにとって、その宗教的生い立ちから、「死人の復活」に関しては疑問の余地がないほどに信じていたものと思われます。しかし、パウロと宗教的背景も文化的背景も違う私たちも含む人たちにとっては、「復活」を受け入れることは容易ではないのではないでしょうか。

パウロにとって死人の復活は疑問の余地がないほど信じられていたものと思われます。私たちを含む多くの人たちとパウロの生い立ちには大きな違いがあります。パウロにとって復活に関して復活を信じない人たちに説明することには困難さを持っていたように思われます。パウロにとって、死人の復活は、神の全能であるという信仰から説明する以外になかったのではないだろうと思われます。復活というのは、存在の根拠を問われる問題です。現代科学は、自然界の法則を発見し、発明という仕方で自然界の物質や法則を利用することはしていますが、自然界の物質や法則の本質がなんであるのかという認識には至っていません。つまり、人は、自然界つまり存在を利用することはできても創り出すことには至っていないのです。無から有を創りだされる全能の神を信じるか、あるいはこの世の存在は偶然の上に立っているとするかは、私たちの現在の生き方に大きく関わってくる事柄であると思います。死者の復活を信じる生き方は、希望に生きる生き方につながっていると思えるからです。

(柴田良和)


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キリストと共に生きる [説教全文]

ローマの信徒への手紙678

 

死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(新共同訳)

 

パウロが手紙を書き送ったローマのキリスト信徒の人たちは、旧約聖書の物語を知っていました。現代のわたしたちは、聖書と言えば、旧約聖書と新約聖書を合わせて聖書(正典)と呼んでいます。しかし、パウロの時代は、聖書と言えば旧約聖書のことでした。最初期のキリスト信徒は、旧約聖書を教典として読んでいたのでした。そして、パウロとローマのキリスト信徒の人たちの接点は、その旧約聖書の物語でした。

何年か前に教会のホームページに次のようなコラムを載せました。「今までに一度は、自分とはなんなのか、あるいは、この世界の不思議さに思いを巡らしたことがあるのではないでしょうか。聖書を最初に紐解くと、この世界の創造の物語が綴られています。最初に、神によって「光」が創られ、空と海、大地、草木、太陽と月星、動物、そして、最後に人間が創られました。もちろんこれらの物語は、神話です。理性的に考えると荒唐無稽な物語かもしれません。しかし、聖書は科学の本ではありません。自分について、この世界についての存在の不思議さに目を向ける時、存在の背後に何かの意志を感じます。この創造の物語を伝えた古代の人たちは、そこに神の意志を見ていたのだと思います。そして、それは自分たちに対する神の好意として受け取ったのだと思います。」。

創造物語の中で、最初の人であるアダムは、神が土をこねて創られ、神が息を吹きかけると生きたものとなったと書かれています。そして、エヴァが創られました。しかし、このアダムとエヴァは、なに不自由なく暮らしていたのに神から禁じられていた木の実を食べて死が人間に運命づけられたのでした。

この物語から勿論いろいろなことが思い浮かび考えることができますが、その一つとして考えられるのは、古代の人たちは人間が神と等しいものになろうとすると言うことに神への逆らいつまり罪というものを感じていたのではないかと思います。罪と言うのは、つまり、人の生き死を自分の手に握り、自ら思うがままにすることができるようにしようとする思いのことです。古代の人たちは、先人たちがやがて死に土にかえっていくのを見てやがて人は、死に土にかえっていくことを運命づけられていくと言うことに自分たちではどうすることもできない人の生き死の現実を見ていたのだと思います。

現代の私たちは科学の進歩によって、どのように人が存在しているかが説明できるようになってきました。医学の進歩によって人の死が少しずつ遠のいていくかのように思えます。しかし、科学によっては、なぜ、人が存在しているのかは説明してくれません。何ひとつ人間の手によっては存在を造り出すことはできないのです。そういった意味では、人間も含めてこの世界の存在は、すべてすでにそこにあったもの、どこまで行っても被造物なのです。そして、その存在を偶然の産物と見るか、神の意思と見るかは、私たち一人ひとりに任せられています。信仰者は、神話である創造物語を通して、人間も含めたこの世界の存在を神の意思と信じるのです。

「死んだ者は、罪から解放されています。」とパウロは今日の個所で言います。それは、つまり、人の生き死を自分の手の中にあるとする自分が死ぬと言うことなのだと思います。命が自分のものであるというあり方に死んで、自分のものでなく神のものであると信じることによってキリストと共に生きることになるのだと思います。

この世のものはすべて神によって創られた。その素朴な思いになかなか思い至らないのが私たち現代に生きている者の現実です。しかし、私たちと同じ被造物として生きられたキリストは、私たちと共に今も生きて下さり、私たちに寄り添っていてくださっていることを信じたいと思います。

聖書を一か所お読みします。「主よ、苦難に襲われると/人々はあなたを求めます。あなたの懲らしめが彼らに臨むと/彼らはまじないを唱えます。妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。わたしたちははらみ、産みの苦しみをしました。しかしそれは風を産むようなものでした。救いを国にもたらすこともできず/地上に住む者を/産み出すこともできませんでした。あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」(イザヤ書2616節以下)。

(柴田良和)


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罪の奴隷とならないため [説教全文]

ローマの信徒への手紙66

 

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(新共同訳)

 

わたしたちは過去に起こった出来事をすべて思い起こすことができるのかと言えばそうではありません。そのほとんどのことは思い起こすことができず、忘れてしまっていることがほとんどです。しかし、印象に残り、その後の人生の中で何度も繰り返し思い起こす出来事もあるのではないでしょうか。ギリシア語では、「時」を表す言葉として「時刻」を指すカイロスと「時間」を指すクロノスの2つの言葉があります。「クロノス」とは、過去から未来へ一定速度・一定方向で時計のように機械的に流れる連続した時間を表現し、「カイロス」とは、一瞬や人間の主観的な時間を表すこともあり、内面的な時間です。このギリシア語で言い表されている「カイロス」という時間、出来事と言ってもいいのでしょうか、その時間に起こった出来事は繰り返し忘れずに思い起こすことがあります。

その一つに罪という言葉にまつわる出来事です。まだ教会には行っていなかった高校生の時、その後の人生で恩師と言えるほどお世話になった牧師に英語を教わっていた時のことです。最寄りの駅からその牧師の牧師館に向かう途中のことです。一人の人に呼び止められました。その人は色々と何かを言っておられたのだと思いますが覚えていません。ただ、その人が言った一言に私は腹を立てたのでした。それは、「あなたは罪人だから悔い改めなさい。」という言葉でした。今から思えばキリスト教徒で路傍伝道をしていた人だったのかも知れませんが、その時のわたしは、見知らぬ人にいきなり「罪人」つまり犯罪者扱いにされてすこぶる不愉快だったのでした。なんとキリスト教とは不愉快で、失礼な宗教なのだろうと思ったものでした。そのことを恩師の牧師に話したらただ笑っておられるだけでした。厳密に言えば、犯罪とキリスト教で言うところの罪とは違うのだと言うことを少しづつですが分かるようになってきましたが、まだまだはっきりと分かったということはできません。

確かに犯罪と罪とは重なるところがあると思います。イエスは犯罪者として十字架に架かられました。マルコによる福音書には、「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。」(マルコによる福音書1527節)と書かれています。イエスは、犯罪者である強盗と一緒に十字架に架かられたのです。マルコ福音書以外のルカ福音書などでは、今日は読みませんが、この時の様子がもう少し詳しく書かれています。犯罪者とされたイエスは罪人であったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」(詩編362節)。犯罪はあくまでも人と人との関係の中で起こることです。それに対して、罪とは罪人と言う言葉が問題となるのは、神と人、もっと言うならば神と自分との関係の中で起こることです。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」(詩編1913節)と詩編の詩人は言います。宗教改革者ルターは次のように言っています。「キリスト者は罪人であって同時に義人である」。

キリスト教で言う罪と言うのは、神と自分との関係の中で問題となる言葉です。自分が罪人であるという自覚は、誰に言われるのではなく自らの心のうちに問い続けることから生まれて来るものだと思います。そして、そこにイエスが架かられた十字架が立っているのだと思います。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。」(詩編25 7節)。

(柴田良和)


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復活の姿 [説教全文]

ローマの信徒への手紙65

 

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(新共同訳) 

 

イースターおめでとうございます。イースター(復活祭)は、クリスマスと並んで、最近では世間に知られるようになってきましたが、それでもまだ、認知度が低いようです。それと言うのも、クリスマスは固定日であり、12月25日と定まっていますが、イースターは移動日なので、その年によって異なっています。イースターの日を知るのは、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日です。この日をイースターとするにあっては、最初期のキリスト教会では、教会会議などで色々と論争があったようですが、現在の日に落ち着いているようです。言うまでもなく、イースターは、イエス・キリストが復活されたということを記念してキリスト教会で行われる行事です。

イエスが復活されたと言うことが何故大きな意味を持つのかと言えば、イエスが十字架に架かり死なれたままであるというのではなく、甦られて今も、キリスト信仰者と共にいて下さっていると言うことを信じ、この世での労苦の多い人生で、やがて死んだとしてもよみがえらさられるという希望を持つことを信じることができるからです。

今日の個所でパウロは、「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる」と言っていますが、いつかはやがて死んでいく私たちではありますが、労苦の多い人生の歩みを一歩一歩とキリストと共に歩んでいく、つまりキリストの死の姿にあずかる、その信仰者の姿が、キリストの復活の姿とつながっていく希望となるからなと思います。

考えてみれば、人間であればだれでも起こることは、誕生、労苦、死亡です。どのように誕生し、どのように労苦し、どのように死亡するかは千差万別、人によって違いはありますが、誕生、労苦、死亡ということは誰にも例外なく人間であれば起こることです。わたしたちはいつの間にか、この時代に生まれ、この土地に生まれ、労苦の多い人生を歩んでいるわけです。ある人が、やがて死んでいくのに、何故、労苦して一生懸命今を生きなければならないのか、その先には死んでいくという厳然な事実があるのに、というようなことを言っていました。一生懸命に生きて行く、今を精一杯生きて行くその先に死が待っていくのに一生懸命に生きて行く、今を精一杯生きて行くのに何の意味があるのかというわけです。

キリスト教という宗教はハッピーエンドの宗教なのか、あるいはそうではないのかというようなことを考えて見られたことはあるでしょうか。最近、映画とかドラマなどをネット動画で観ることが多いのですが、勿論、ハッピーエンドで終わらない悲劇、例えば、マッチ売りの少女とかフランダースの犬などがありますが、様々な映画やドラマを観ていて、ハッピーエンドで終わってほしいと思うのが人情なのではないでしょうか。キリストが十字架に架かり、死なれたと言うことで終わるのであれば、悲劇の最たるものです。たぶんそこで終わりであったならキリスト教と言う宗教はこれほど世界中に広がらなかったのではないかと思います。

キリストは労苦の多い人生を歩まれました。そして最後には、古代ローマ帝国に反逆した犯罪人とされ、人々への見せしめの中、むごたらしい十字架刑に架かり、死なれました。確かにそのことだけで終われば、キリスト教は悲劇の宗教であると言うことになるでしょう。しかし、イエスが死なれた後、イエスと親しかった人の中から、一人、また一人とイエスがよみがえられたことを告白する人が現れたのです。キリスト信徒は、そのイエスの復活の出来事を受け止め、信じているがゆえに悲劇の宗教に終わらずハッピーエンドの宗教として信仰しているのではないでしょうか。

労苦の多い人生を私たちは生きています。そしてそれは信仰者にとって「キリストと一体になってその死の姿にあやかる」と言うことです。しかし、誕生、労苦、死亡のその先があるという希望、信仰者にとって、キリストの復活の姿にあやかるという希望を信じる信仰が与えられ続けていくことをこのイースターの日に思い起こしながら、祈りのうちに過ごしてまいりたいと思います。

(柴田良和)


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新しい命 [説教全文]

ローマの信徒への手紙64

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(新共同訳)

 

来週の日曜日は、教会暦では、復活祭(英語読みでイースター)です。このイースターまでの46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間を受難節と言いイエス・キリストの受難と死を覚え過ごす時期だとされています。そして、受難節の中でもイースターまでの一週間を受難週と言います。日曜日の今日から始まって、今週の土曜日の日暮れまでの期間です。教会では、この一週間を曜日ごとにイエスがエルサレムに行かれ、そこで起こった出来事を思い起こし、記念する日とされています。

一週間の最初の日である今日は、棕櫚の日と言われていて、イエスが人々に歓迎され、エルサレムに入られた日です。イエスはエルサレムに近づかれると二人の弟子に命じて、子ろばを調達するように言われました。「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。」(マルコによる福音書117節以下)。この人々が野原から葉の付いた枝を持ってきた植物が、棕櫚と言われる植物だと言われていて棕櫚の日と呼ばれるようになったと言うことです。

月曜日は、宮きよめと言われる出来事が起こったとされる日です。イエスは神殿の境内に入りそこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が祈りの家であることを宣言されたとされる日です。

水曜日は、イエスがベタニアのシモンの家で食事をしていたとき、マリヤがナルドの高価な香油をイエスの頭に注ぎかけイエスの埋葬の準備が行われたとする日です。

木曜日は、主の晩餐と言われる弟子たちと晩餐を共にされ日であり、この後、オリーブ山のゲッセマネと言う所で祈られ、弟子であるイスカリオテのユダの裏切りによって権力者たちの命令によって逮捕された日です。

金曜日は、受難日と言われる日です。古代ローマ帝国の残酷な十字架刑、これは、ローマに逆らう者への見せしめの意味もあったと言われています。イエスは鞭打たれ、人々から嘲られて、重い十字架を背負って歩かれ、そして十字架に掛けられたのでした。それはイエスにとって、孤独のうちに苦痛と絶望の時でありました。イエスは大声で叫ばれました。「

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マルコによる福音書1534節以下)と聖書には書かれています。

さて、パウロは言います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」。パウロにとって、バプテスマ(洗礼)とは、イエスに起こった受難と死の出来事を自分のこととして受け入れると言うことではなかったのかと言うことです。バプテスマ(洗礼)を受けると言うことは、キリストの受難と死を思い起こしながら生きて行くという信仰の決断をすると言うことであり、私たち自らに起こって来る苦難の出来事の中にもキリストは共にいて下さっていると言うことなのだと思います。孤独と苦難、絶望の中にあったとしてもそこにキリストは共にいて下さり、新しい命へと生まれる希望をこの受難週の初めの日に思い起こしながら過ごしてまいりたいと思います。

聖書を一か所お読みします。「弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書1629節以下)。

(柴田良和)


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