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エジプトへ [説教全文]

エレミヤ書4317

 

彼らの神である主がエレミヤを遣わして伝えさせたすべての言葉を、彼が民の全員に語り終えたとき、ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。

「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」

こうして、カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった。カレアの子ヨハナンと軍の長たちはすべて、避難先の国々からユダの国に引き揚げて来たユダの残留民をすべて集めた。そこには、親衛隊長ネブザルアダンが、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤに託した男、女、子供、王の娘たちをはじめすべての人々、および預言者エレミヤ、ネリヤの子バルクがいた。そして彼らは主の声に聞き従わず、エジプトの地へ赴き、タフパンヘスにたどりついた。

(新共同訳)

 

おはようございます。ちょうど紅葉が見ごろの時期となりました。紅葉の葉っぱは、木につながって緑の葉を茂らすのですが、秋になると木から養分を運ぶ管が塞がれて、緑が失われ、赤や黄色になるのだそうです。人間の側からは美しい赤や黄色の葉っぱも、木の側からは人生の終わりを示すようなものです。そして、やがて、木の葉は木を離れて散っていきます。それでも、それは悲しいことではなく、次に生えてくる葉っぱのための養分になるのです。神さまはこうして命がめぐるように木を造られたのだと思うと、神さまの御業はなんと巧みなものだろうと思います。天気予報で秋はあと一週間だと言っていました。今年の紅葉を今の内に楽しんでおきたいものです。

さて、今日からアドベント、待降節が始まりました。来週も私が説教なので、来週からクリスマスメッセージをしていきたいと思いますが、今週はまだ11月ですので、エレミヤ書を読んでいきたいと思います。エレミヤもとうとう亡くなる場所のエジプトに連れていかれることとなる箇所です。

エレミヤは、神さまから聞き取った御言葉を、エルサレムに残っているすべての民に語り聞かせました。しかし、ホシャヤの子アザルヤや、カレアの子ヨハナンをはじめ、高慢な人々はエレミヤの言葉を聞かずにこう言いました。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。ネリヤの子バルクがあなたをそそのかして、我々に対立させ、我々をカルデア人(バビロン人)に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンに行かせようとしているのだ」。ユダの地にとどまることを命じた神さまの御心に聞き従わなかったのです。

カレアの子ヨハナンと軍の長たちは、今まで避難していてユダに引き上げてきた人々を集め、エレミヤやネリヤの子バルクなど、神さまの言葉に従ってきた人々をも引き連れて、神さまの御声に反して、エジプトに連れて行ったというのが今日のお話です。

それにしてもなぜ、エレミヤはエジプトに行ってしまったのでしょうか。彼らに従わず、神さまのおっしゃるとおりユダにとどまることをしなかったのはなぜでしょうか。これは、旧約学者の人々にとってもわからないことだそうです。結局、エレミヤはその最後をエジプトで迎えることになります。ユダに残っていたら、神さまの言葉をまだまだ語り継ぐことができたのではないかと思うと、残念でなりません。もしかすると、ユダに残っていても、エレミヤの取り次ぐ言葉に逆らう人々によって迫害を受け、死刑にされてしまっていたかもしれません。いずれにせよ、エレミヤには哀しい最後が待ち受けていたのだと思います。彼は最後まで「哀しみの預言者」だったのです。こうして、エレミヤはエジプトに連れて行かれ、その最後を遂げるのです。今を生きるわたしたちは、エレミヤの告げたことが正しい、神さまの御言葉であったということがわかります。しかし、その当時、エレミヤの言葉を聞いた人々は、エレミヤが神さまの名をかたって、自分たちをエルサレムにとどめ、やがてバビロニアに捕虜として連れて行かせるのだと思ったのです。エレミヤの言葉をすべて聞かないで、エレミヤを神に逆らう者として迫害したのです。

さて、アドベントですから、イエスさまのお話もしようと思います。イエスさまがベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったあと、ユダヤのベツレヘムへと尋ねてきた東の国の博士たちがいました。この東の国とは、ちょうどユダヤ人たちが捕囚されていたバビロニアのあたりからやってきたことになります。この博士たちが、一晩、イエスさまと共に家畜小屋に宿ったときに、こんな夢を見ました。ユダヤの王ヘロデが、イエスさまの命を狙っている。エジプトへ逃げなさい、という夢でした。博士たちは、夢で聞いたお告げをヨセフやマリヤに告げ、すぐにエジプトに逃れるように勧めたのでした。ヨセフとマリヤは急いで旅支度をし、エジプトへのがれました。

博士たちの言うとおり、ヘロデ王は国中の2歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。イエスさまは博士たちのおかげで助かったのですが、それにしてもなんとおそろしい話でしょうか。幼い子どもたちが皆殺しに会うなんて。クリスマスは今では大人も子どもも楽しいうれしい時ですが、こんな残酷な話がついているのです。救い主のお生まれには、光と影の部分があったのです。

イエスさまは博士たちの助言で助かりました。一方、エレミヤは迫害する者たちによってエジプトに連れ去られ、殺されてしまうのです。この2つの物語は、逆のことがらのように見えますが、実はそうではありません。エレミヤが処刑されてしまうのと同じように、イエスさまもまた、大人になって神の言葉を語り、病気の人を癒したのに、ファリサイ人や律法学者たちの恨みを買い、十字架につけられて殺されてしまうのです。エレミヤとイエスさまの死にざまには共通点があります。エレミヤの死は、十字架を背負ってカルバリの丘に行き、十字架にかけられた、あのイエスさまを指し示しているのではないでしょうか。エレミヤはユダヤ人のバビロンからの解放を預言しましたが、イエスさまもまた、すべての人の罪からの解放を語られました。自分の命をささげて、人々の解放を告げる、これもまたエレミヤとイエスさまの共通の働きだったのです。

旧約聖書の登場人物の中には、イエスさまがどんな方であるか、どんな働きをなさるのかを、指し示す人々がいます。エレミヤ書のお話では、エレミヤが身をもってイエスさまの人生をあかししたことが書かれています。神さまの御言葉をあますことなく語っても、ファリサイ人や律法学者のように、それを神さまの言葉と聞かず、イエスさまを「神の名を使う不届きもの」として命を狙い、殺される。エレミヤも神さまの言葉を語っても聞かれなかった哀しみの預言者なのです。

これから、クリスマスのシーズンに入ります。クリスマス、特にアドベントは、静かに神さまの言葉を聞き、イエスさまの誕生を待ち望む大切な時です。救い主がお生まれになった、といううれしい知らせを聞こうとせず、わいわいと騒ぐお祭りにしてしまっているのが現実ではないでしょうか。クリスマスを祝うのは大切なことですが、そこにイエスさまが見えなかったら、どうにもなりません。なんのためのお祭りかわからなくなってしまいます。あるじ不在のクリスマスではなく、イエスさまがお生まれになったという喜びを、讃美や祈りで表すようなクリスマスにしたいものです。

エレミヤ書のお話は、また年があけてから、もう少し続けたいと思います。エレミヤは「哀しみの預言者」ですが、哀しいだけでなく、バビロンからの解放を語り、メシヤの姿を語っています。「喜びの預言者」でもあるのです。本当に大切なことは、なかなか人には伝わらないものです。エレミヤの預言に背を向けた人々の子孫が、ずっと後になって、その真実を感じるようになります。聖書の言葉は、後になって信じられることの多いものですが、逆に、二千何百年たっても、今の時代を指し示すものがたくさん出てきます。今、わたしたちに語られている言葉としてとらえ、心にとどめておくことができれば、聖書は生き生きとわたしたちに語るのではないでしょうか。

クリスマスの喜びをしっかりと迎えるために、聖書を読み、イエスさまの誕生が、わたしにとってどういう意味があるのか、かみしめていく大切な時としたいと思います。

(中村尚子)


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聖霊の導きの下で [説教全文]

ローマの信徒への手紙1417

 

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

(新共同訳)

 

朝晩と昼間の気温の差が大きい季節です。身体がついていけなくてしんどい季節でもあります。休める時は休んで、無理をせずに過ごしてまいりましょう。

ローマの信徒への手紙を書いたのは、パウロと言う人です。このパウロは、キリスト教の中でも重要な人物の一人です。パウロが生きた時代よりも後の時代にパウロの手紙がキリスト教の経典として採用されたことからもそのことが分かります。ちなみに、新約聖書の中で一番古い文書は、テサロニケの信徒への手紙一だといわれています。パウロは、その生涯で大きな伝道旅行を三回に渡って行っていますが、その訪問した先々の町のキリスト信徒に対して訪問した後に、多くは伝道旅行中ですが、手紙を書いています。もしかしたら私たちに残されている手紙よりももっと多くの手紙を書いていてのかもしれませんが、残念ながら、現在残されているのは私たちが手にしている手紙だけです。そのパウロの手紙の中でもローマの信徒への手紙は、他の手紙と違ったところがあります。ローマの信徒への手紙以外のパウロの手紙は、パウロが訪問したことのある町の信徒に書かれていますが、ローマの信徒への手紙は、ローマの町にまだ訪問する前にパウロが手紙をしたためたものです。それゆえ、パウロはこのローマの信徒への手紙を書くにあたっては、丁寧な自己紹介、当時のキリスト信徒が共通に知っている旧約聖書の内容を用いてのパウロの福音の説明、そして、たぶん、ローマ帝国が支配していた地中海世界の宗教状況を伝道りょこくの中である程度理解しており、また、ローマの信徒の人達の状況も情報として知っていたパウロは、日々の生活の中で具体的な事、つまり食事に関してのことに多くの言葉を重ねています。

古代の世界の多くの宗教は、ユダヤ教に限らず、動物供儀が行われていたようです。ローマで基本的に人々が信じていた神々にも動物供儀が行われていたようです。町の神殿で供儀として屠られた動物は、勿論、その祭りで町の人々が食べる訳ですが、残った多くの肉は市場に卸されて、市場で食用の肉として売られていたようです。ですから、根っからのローマ人は、市場の肉を食べることには、違和感も抵抗もなかったのだと思います。一方、ユダヤ教徒であるキリスト信徒は、根っこがユダヤ教で教育を受けていますから異教の神々の供儀に使われた肉を食べることには抵抗がありました。ローマの市場で売られている肉を食べることに抵抗がない人たちと抵抗がある人達とが、ローマのキリスト信徒の人達の中にはいたのでした。そしてそのような日常生活の中で起こってくることによって、キリスト信徒同士がいがみ合っているという状況をパウロは情報を得ていたのかも知れません。日常生活の中で、何を食べているのかをお互いに知っていたわけですから、私たちが今感覚として持っているよりも当時のキリスト信徒同士は生活に密着して交流を持っていたのかも知れません。

仲間意識を持つのに使われる常套手段は、一緒に飲み食いすると言うことです。宗教的に儀式化されていますが、私たちも月に一度一緒に飲み食いしています。しかしパウロは言います。神の国は飲み食いではないとはっきりと言います。異教の神にささげられた肉を食べる仲間のキリスト信徒をゆるせないユダヤ教徒である消えリスト信徒、一方、くだらないと思えることにこだわっていると考えるユダヤ教徒以外のキリスト信徒たち。仲間意識があるとそこでのメンバーは自分と違っていることが許せないと言うことがあるのです。特に、仲間意識が強ければ強いほどそうなのだと思います。しかし、パウロは、自分たちキリスト信徒が目指している神の国は、義と平和と喜びであると言います。キリスト信徒は、神の国を目指している仲間なのです。そのことをパウロは多くの言葉を使って、ローマの信徒の人達に言いたかったのではないでしょうか。

(柴田良和)


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迫害されるエレミヤ [説教全文]

エレミヤ書38613節 

 

そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。

宮廷にいたクシュ人の宦官エベド・メレクは、エレミヤが水溜めに投げ込まれたことを聞いた。そのとき、王はベニヤミン門の広場に座していた。

エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。

「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」

王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。エベド・メレクはその人々を連れて宮廷に帰り、倉庫の下から古着やぼろ切れを取って来て、それを綱で水溜めの中のエレミヤにつり降ろした。クシュ人エベド・メレクはエレミヤに言った。「古着とぼろ切れを脇の下にはさんで、綱にあてがいなさい。」エレミヤはそのとおりにした。そこで、彼らはエレミヤを水溜めから綱で引き上げた。そして、エレミヤは監視の庭に留めて置かれた。

(新共同訳)

 

おはようございます。外ではいちょうの葉が黄色に、紅葉の葉が赤色に色づきはじめています。サツマイモなどの秋の野菜や、かきやりんごなど果物が店先に並んでいます。このごろは、夏が終わったらすぐ冬になってしまうのですが、秋の恵みをゆっくりと感じたい今日この頃です。朝晩の寒暖差が激しいのでみなさんも風邪などにご注意ください。わたしは毎年恒例のセイタカアワダチソウという黄色い花の花粉症でくしゃみが止まりませんが元気です。

さて、エレミヤの物語も、エレミヤが迫害される場面が続き、ちょっと辛いですが、お付き合いください。それにしても、なぜ、神さまの言葉を伝えるエレミヤが迫害されなければならないのか、いつも腹立たしく思います。戦争をやめさせようとして、神さまの御言葉を伝えても、耳を貸さずに戦争を続け、武器を買うために農民たちから重税をとって苦しめるのです。

そういえば、北朝鮮は武器を調達するために、国民から税金を取り、多くの国民は食べるものが買えずに飢えていると聞きます。おそらく、戦争をやめろと言っても、飢えている人々をほったらかしにして、金書記長は武器を集め続けるためにお金を使い続けるのでしょう。今の北朝鮮と、エレミヤ当時のイスラエルは、状況がよく似ているように思います。戦争は人の感覚を狂わせるもので、一度始まったらなかなか終わることのできないものかもしれません。武器を使って戦うことが、平和を作り出すことは決してありません。話し合いによって平和への道を作り出すことができるよう、毎日祈っています。

エレミヤも、同時代の預言者イザヤも、武器を使わず、戦争をしないで、静かに祈れという神さまの御言葉を伝えました。戦わないこと、それが神さまの本当の御心だったのです。しかし、ユダヤの役人たちは、エレミヤやイザヤたちの言うことを信じませんでした。ユダヤが強くなること、戦争に勝つことだけを考えて、武器を集めました。今、ロシアもウクライナも、武器を集めることに必死ですが、武器で攻め込まれた街は、悲惨な状況になっています。神さまの平和が戻るのはいつなのか、ただただ御国がきますようにと祈るばかりです。

エレミヤが神さまの御言葉を伝えるたびに、それに逆らう人々によってエレミヤは苦しめられ、牢獄に入れられたり、石を投げられたり、ひどい迫害を受けました。今日のお話も迫害の様子です。エレミヤは神さまから聞いた言葉として、カルデア軍、つまりバビロニアに降参する者は生き延びる。この都エルサレムはバビロニアの手に落ちると預言をしました。それを聞いた役人たちは、エレミヤを死刑にしようとゼデキヤ王に訴えます。ゼデキヤ王は「あの男のことはお前たちに任せる」と言いました。そのころ、もうゼデキヤ王の力はなく、役人たちの言いなりになっていたのでした。

そこで役人たちはエレミヤを捕まえて、罪人を監視する庭にある、王子マルキヤの井戸にエレミヤを綱でつりおろしました。この井戸には水はなく、泥だけがたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈み込んでしまいました。

宮廷にいた、クシュの宦官エベド・メレクは、エレミヤが井戸の水ために投げ込まれたことを聞きました。そのころゼデキヤ王は、ベニヤミンの門の広場に座っていました。エベド・メレクはゼデキヤ王に、エレミヤの悲惨な状況を知らせます。「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水ために投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまうでしょう。もう都にはパンがなくなりましたから」。王はエレミヤのために、毎日1個ずつパンをエレミヤに届けていたのですが、それももうなくなってしまい、エレミヤは食べるものなしに井戸に投げ込まれているのです。このままではエレミヤの命が危険です。

ゼデキヤ王は、クシュ人エベド・メレクに、30人の人を連れていき、預言者エレミヤが死なないうちに井戸から引き上げるように命じました。エベド・メレクは30人の人を連れて王宮に帰り、倉庫の中からぼろ切れを取ってきて、それを綱でエレミヤのところに釣りおろし、エレミヤに言いました。「古着とぼろ切れを脇の下にはさんで、綱にあてがいなさい」。エレミヤがそのとおりにすると、30人の人たちがエレミヤを引き上げました。エレミヤは助かりましたが、監視の庭に留め置かれたのでした。

エレミヤはエベド・メレクのおかげで助けられたのですが、その後、しばらくはゼデキヤ王の相談に乗って、神さまの言葉を伝える役目を果たしたのでした。やがて、エレミヤが伝えていたとおりに、エルサレムは陥落し、逃げ出したゼデキヤ王は両目をつぶされ、バビロンに連行されました。これで、イスラエルは戦争に負け、多くの人が捕虜となったのでした。

それにしても、なぜ神さまの言葉は人々に聞かれないのでしょうか。神の思いと人の思いには、大きな差があります。人間にははかり知ることのできない神さまの御心、ご計画があるのです。人は、時に自分の思いと真逆の神さまの思いを聞かされることがあります。今、ウクライナとロシアだけでなく、世界中がそのどちらかに味方をして、武器を供給したり、兵隊を送ったりしています。先日も、日本人でウクライナの現地で戦っていた日本人の青年が死亡したというニュースが流れていました。若い、将来に希望のある青年の死はわたしにはショックでした。わたしの母方の伯父が二人、太平洋戦争で戦死しましたが、もし伯父たちが生きていたら、楽しい人生が待っていたかと思うと、大変悲しい思いになります。

世界中が、ウクライナにつくか、ロシアに味方するか、大論争を交わしている中で、「戦争は止めよう」と叫ぶことは、もしかするとエレミヤのように反対にあい、迫害を受けることにつながるかもしれません。しかし、わたしたちは今、神さまから、戦争をやめて平和を作り出しなさい」と言われているのではないでしょうか。そして、平和の実現のために、心静かに祈りなさい、と語られているのではないでしょうか。エレミヤの時代は今から2700年も前のことですが、その時の神さまの御言葉が、今の時代にも通じているというのは不思議なことです。それは、人間の罪深さが、昔も今も変わらないということなのかもしれません。自分の国の利益ばかりを求める人間の愚かさは、今も昔も一緒なのかもしれません。

今の時代、エレミヤの役割は、わたしたち信仰者に託されているのではないでしょうか。人の思いだけで動いている人々に、神さまの思いを伝えるために、わたしたちは立たされているのではないでしょうか。そして、神さまの御言葉を伝えるために苦しい思いをする人々を助けに、30人の人々のように遣わされていくこともまたあるのだと思います。戦争をしにいくのでなく、戦争で苦しめられている人々を助けに行くことが大事なのではないでしょうか。食料を分かち合い、避難してくる人々を受け入れ、負傷している人たちの手当てをし、迫害を受けている人々を解放する。そんなことができたらいい、それこそ神さまの御心にかなうことなのだと思うのです。

平和を求めるということは、背後に悲しいこと、苦しいことがたくさんあるのではないかと思います。しかし、神さまは平和を作り出す人と共におられます。イエスさまも言われました。平和を作り出す人は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろうと。

迫害されても、エレミヤは神の言葉を語ることをやめませんでした。エレミヤの名前の意味は「ヤハウエは高める」。どんなに周りの者が迫害し、貶められても、エレミヤは神さまに高められているのです。わたしたちも神さまの御言葉を伝えることで、どんなに迫害されても、高められていくのです。

(中村尚子)


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善悪 [説教全文]

ローマの信徒への手紙1416

 

ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

(新共同訳)

 

まだ、昼間はそうでもないですけれど、朝と夜は大分と涼しくなってきました。今年の冬は、例年に比べて寒くなると言うことですので、体調には十分気をつけて過ごしてまいりましょう。

ローマの信徒への手紙を読み進んでいます。今日のパウロの言葉は、そんなに難しくない言葉なのだと思います。パウロの言葉は、物事を大げさに言ったり、気持ちが先立ったりしている言葉が多いので、パウロの気持ちに合わせることが難しく思えることも多いのですが、今日の言葉は、一言で言ってしまえば、ひとりよがりにならないようにと言うことだと思います。もう少し難しい言葉で言うと独善に陥るなということでしょうか、独善とは、自分だけが正しいと信じ込んで行動することだそうです。そして、このことは、誰であれ宗教を信じている人は心しなければならないことのように思えます。

今、世間、日本ですけれども騒がれている宗教も、その本人たちはよいことだと思って疑わずに行動をしているかも知れないのです。一昔前に大事件を起こした宗教も本人たちは、自分たちは本気で人々を救おうとしてあのような事件を起こしたと言うことのようです。あの宗教を信じていた人たちは真面目過ぎるくらいまじめであり、真剣すぎるくらい真剣に自らの宗教を信じていたのです。

パウロも復活のイエスに出会う前は、自らの宗教に真剣すぎるくらい真剣でした。自分自身で、熱心なユダヤ教徒であったと繰り返し言っているくらいです。自らの宗教に熱心で真剣であるだけにパウロにとってキリスト信徒はゆるせない人たちだったのだと思います。自らの宗教に熱心で真剣であればあるほど自ら善を握りしめていると思い込んでしまうのです。このような宗教の性質を時の権力者や支配者たちは利用して来たのかを歴史を振り返ってみればすぐにわかることです。なぜ、今の日本国憲法、政教分離を定めた平和憲法があるのかと言うことです。

さて、聖書の物語の中で、創造物語はいつも私たちに生きる原点に立ち返らせてくれます。神につくられた人間であるアダムとエヴァは、何を神から禁じられ、何をしたから楽園から追放されたのでしょうか。昔、私が子供の頃、まだ、教会にも一度も足を運んだことがなかったころ、アダムとエバが食べた木の実は、リンゴだと思っていました。勿論、この物語の詳しいことは知りませんでしたから、神がだめだといったことをしたからアダムとエバは楽園を追い出されたのだろうくらいにしか思っていませんでした。しかし、よく読んでみると神が禁じられたのは、「善悪の知識の木」からとれる木の実を取って食べるなと神はアダムとエバに命じられたのでした。命じられたというよりは契約を結ばれたのです。ヘビは、エヴァに善悪の知識の木の実を食べると神のようになれるといったのでした。結果、アダムとエヴァは、独善に陥り、自分だけが正しいと信じ込んで行動するようになったのでした。

私たちは、いつの間にか自明のことのように分かり切っていると思い込んでしまいがちになりますが、何が善で、何が悪かということは決して自明のことではありません。人の世では、時と場によっては、人殺しが褒めたたえられることがあるのだと言うことを現実を見、歴史を振り返り、冷静な目で、冷静な心で受け止めなければなりません。本当の意味で、善なのは神だけしかおられないと言うことを信じること、そしてその神にゆだねていくことが善なのではないでしょうか。

(柴田良和)


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