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小さな種から [説教全文]

マルコによる福音書4章2634

 

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。

それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(新共同訳)

 

おはようございます。一年以上講壇をあけてしまいましたが、本日より復帰させていただきます。闘病中は皆さんにご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。そして、いつもお祈りで支えていただき感謝します。今後もリハビリは続きます。今後もどうぞお祈りください。

今日はまた、ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝です。二千年余り昔のエルサレムで、集まった人々に聖霊が下り、世界ではじめの教会が誕生した日、いわば「教会の誕生日」です。みなさんと教会の誕生日を祝うことができる幸いを感謝します。

今年度は、マルコ福音書の中から、マルコの特殊資料というものをとりあげてまいります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書の中で、マルコだけが書いている文章が、マルコの特殊資料となります。つまり、他の3つの福音書と違って、マルコが独自で伝えたいと思ったメッセージが表われてきます。マルコは四つの福音書の中では最も時代の古いものといわれています。イエスさまの時代に一番近い時期に書かれたマルコの福音書は、イエスさまの姿を素直に表していると思われます。みなさんとご一緒に、飾りのないイエスさまの姿を見つけていけたら幸いです。

さて、復帰第一回の説教は、イエスさまのたとえ話でも大変有名な、からし種のお話です。からし種の話に入るまえに、イエスさまがたとえ話を使われるということについてですが、イエスさまは、集まってくる群衆にはたとえ話で語られ、ご自分の弟子たちにはその意味を細かく語って聞かされたということです。たとえ話が示している神さまのみ言葉を、すべての人に直接語ることはされなかったのです。

イエスさまは「聞く耳のある者は聞きなさい」とよく言われましたが、たとえ話も、よく考え、心の耳を澄まして聞かないと、意味がわからないものです。逆に、耳を傾け、心を傾けて、よくよく聞くならば、そのメッセージは直接的な言葉で語られるよりもずっと豊かに、鮮やかに聞こえてくるものなのかもしれません。

さて、みなさんは最近、種まきをすることがありましたか? 私は園芸が趣味だったので、福山でも東京でも、毎年、春と秋になると、花や野菜の種を蒔いて楽しんでいましたが、都会の大阪に来てから種まきとはご無沙汰していましたが、今年は牧師館のベランダに。福山では毎年、なすびやミニトマトなどの食べ物を盛んに栽培しています。収穫したら、大好きなイタリアンの簡単な料理にして楽しみたいと思います。

イエスさまのこのたとえ話は、日本人にとってはあまりなじみのない、からしの木、グリーンマスタードを取り上げていますが、イスラエルの方ではとてもポピュラーな草なのだと思います。日本人にとっては、ヨモギなど、道端に生えていて食べられるものに当たるのかもしれません。でも、最近は道端のヨモギをつんで食べる人はあまりいなくなりました。

この「からし種」ですが、すでにご存じの方もあると思いますが、「からしの木」と言われるグリーンマスタードは、実は木ではなく、草、あるいは野菜の一種です。芽生えてからだいたい3~4年が寿命なのですが、土が合えば、こぼれ種でどんどん増えます。私は福山教会にいるときに、当時、大先輩の牧師にお庭のからしの木をいただいて、福山教会の庭に植えました。すると、3年後には2階にあった教会堂の窓から頭が見えるぐらい、約4mぐらいにまで成長しました。今日の聖書に書かれている通り、その枝には、日陰を求めて飛んできたすずめたちがとまっていました。近所の人たちが通りすがりに「これはなんの木ですか?」と聞くので、「からしの木です。でも、木じゃなくて草なんですよ」と言うと、びっくりして眺めていくのでした。

その4mにもなるからしの木の種は、本当に小さな小さなものです。それは、砂場の砂よりもさらに小さく、ちりのようにフッと吹けば飛んでしまうものです。そんな小さな種から、4mにもなる草が生えると言うのは驚きです。みなさんはからしの木を見たことがありますか? マスタードですから、菜の花の仲間です。おなじみの菜の花を大きく拡大したような姿形をしていて、初夏に黄色い細長い花をいっぱいに咲かせ、夏には種がいっぱい入った筒状のさやを実らせます。私にからしの木をくださった先輩牧師は植物学者のような方で、さやの中の小さなからしの種を虫めがねでご丁寧に数えたそうですが、1つのさやの中に800個あまりの種が入っていたそうです。びっくりしました。

そんなからし種のたとえ話を用いて、イエスさまは何を話そうとされていたのでしょうか。小さな種からやがて大きなからしの木が育ち、鳥が宿るほどになる。これが神の国の現実であると言われるのです。みなさんは、このからしの木のイメージから、何を聞き取っておられるでしょうか。

私はこのからし種の話は、私たちがたとえ小さな存在であるとしても、私たちのできることは小さなことでしかないとしても、神さまは私たちを思いのほか大きく用いてくださるのだ、という希望の言葉として受け取っています。東京の恵泉教会の少年少女たちが「からし種のうた」というのを作って歌っていましたが、「ぼくたち小さなからし種」という歌詞ではじまる歌でした。わたしたちの存在がからしの種にたとえられていると考えての歌だと思いました。

小さな種が芽を出し、大きく育って花を咲かせる、ということは、わたしたちを励ますうれしいメッセージではないでしょうか。小さな種が芽を出し、成長して、花を咲かせ、夏の暑さの中では人びとに涼しい日影を作り出すのです。私たちも小さな種から芽を出し、伸びていくからしの木です。たとえ小さくても、いいではありませんか。のびのびと自分らしく、花を咲かせていきたいものです。

(中村尚子)


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罪からの解放 [説教全文]

ローマの信徒への手紙612

 

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。(新共同訳)

 

皆さんは、バプテスマ(洗礼)を受けて日のことを覚えておられるでしょうか。わたしは、もう四十年以上前のことなので、何年に受けたのかが定かではありません。確か、十九歳か二十歳の時だったので1980年のことだと思うのですが、定かではありません。しかし、不思議と日にちだけは覚えていて、4月17日の日曜日、ちょうど復活祭(イースター)の日でした。当時は平野教会に通っていたのですが、平野教会のO牧師がまだ按手礼を受けていないと言うことで、堺教会のI牧師からバプテスマを受けました。バプテスマは、水に沈んで、起き上がるというキリスト教の儀式ですが。当時のわたしは、キリスト信徒になるための通過儀式に位しか思っていませんでした。水に沈むと言うことは、古い自分に死んで、起き上がることによって新しい自分に復活するということをずいぶんと後になって知りました。いわば死んで復活、甦ると言うことを宗教儀式によって言い表しているわけです。それは、体で表す信仰告白だとも言われています。宗教改革までは、さまざまな儀式が教会(カトリック教会)で行われていましたが、宗教改革以後は、プロテスタント教会ではバプテスマ(洗礼)と主の晩餐式(聖餐式)のみが宗教儀式(礼典)として残されています。

パウロは、バプテスマ(洗礼)について次のように言っています。「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6 4節以下)。パウロ自身が、いつどのようにして誰から洗礼(バプテスマ)を受けたのかと言うことは、新約聖書には報告がありません。しかし、パウロは何人かの人たちに洗礼(バプテスマ)を授けてとの報告はあります。

バプテスマを受けたからと言って、その人が変わるわけではありません。それは、それからの人生を、キリストを信じ、神と共に歩むという決断をする信仰告白なのです。パウロにとって、バプテスマ(洗礼)とは、イエスに起こった受難と死の出来事を自分のこととして受け入れると言うことであり、私たちにとって、バプテスマ(洗礼)を受けると言うことは、キリストの受難と死を思い起こし、神に信頼し、神と共に生きて行くという信仰の決断をすると言うことなのだと思います。

バプテスマはまた、今生きている私たちの人生に起こることへの先取りとして信仰告白をしていると言うことだと思います。私たちは、生まれ、生きて、死んでいくという運命を人間である限り受け入れていかなければなりません。しかし、死ぬと言うことの先があると言うことをバプテスマ(洗礼)によって言い表し、信仰告白しているのだと思います。私たち人間は例外なくキリストによってすでに救われているのです。それが罪の支配から解放されているというという信仰の現実です。

しかし、だからと言って罪の誘惑から免れる人が一人もいないのもまた現実です。聖書には、「「・・欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙115節)とありますが、パウロもまた人間として心の葛藤を抱えていました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマの信徒への手紙718節以下)。

信仰者の現実は、神に信頼し、自らをゆだねるという信仰によって、いまだ救われつづけなければならないという現実があるのであるのです。神の声に耳を傾けながら、キリストによって神が共にいて下さっていると言うことに信頼し、自らのすべてを神にゆだねる信仰が与えられ続けていけるように祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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キリスト・イエスに結ばれて [説教全文]

ローマの信徒への手紙611

 

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(新共同訳)

 

池田晶子という哲学者の方がおられます。なんでもご本人は哲学者ではなく文筆家と呼ばれることを望んでおられました。2007年に亡くなられましたが、「14歳からの哲学」という著書で有名な方です。この池田晶子さんの著書に「知ることより考えること」という著書があります。その著書のあとがきに次のように書かれています。「『知ることよりも考えること』とは、決して知ることの否定ではありません。考えるとは、本当のことを知るために考えるという以外にはあり得ない。しかし、きょうび「知る」とは、外的情報を(できるだけたくさん)取得することだとしかおもわれていない。取得するばかりで、誰も自ら考えていない。だから世の中こんなふうなのであります。」。なかなか辛辣な言葉ですが、確かに現代のわたしたちの周りでは情報に溢れています。知ろうと思えば、様々な本が手に入りますし、テレビやラジオをつければ情報が流れて来るでしょう。パソコンが使える方は、インターネットで調べれば、知りたい情報を知ることができます。

しかし、一つの物事や出来事をじっくりと考えると言うことをあまりしていないのが私たちの現状なのではないでしょうか。知り得た情報を鵜吞みにするのではなくじっくりと考えてみるということが、自分にとっても社会にとっても大切な事なのではないかとこの池田晶子さんの言葉から思わされます。

さて、今日の聖書の個所であるパウロの言葉は、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」という言葉です。ここでパウロが勧めている「考えなさい」という言葉は、ギリシア語の言語では、ロギゾマイという言葉が使われています。この言葉は、ロゴスという名詞が動詞となったものです。このロゴスと言う言葉は、ヨハネによる福音書の最初の言葉である「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書11節)という文章で訳されている「言」です。この「言」と訳されている「ロゴス」という語には「理性、数を数えること」という意味が基本にあるから、この動詞は数学、経済用語として「数える」の意味が基本にあるようです。そこから比喩的な意味となって「考慮する」「熟考した上でそういう結論を出す」「丁寧に、よく考慮して、結論を出す」の意味になるということです。パウロはここでローマの信徒の人たちに「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」ということを、その信仰の現実をしっかりと考えなさいと語っているのだと思います。

そしてその前提として「あなたがたも自分は罪に対して死んでいる」とパウロは言います。パウロは決して人間の罪の現実を軽くは見ていませんでした。そのことは、ローマの信徒への手紙の1章の言葉からうかがえます。人間の悪の現実から神に対する罪に支配されている人間の現実をパウロは良く知っていたものだと思われます。悪あるいは悪徳に関しては、パウロは次のように言っています。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(ローマの信徒への手紙1 29節以下)。このような悪とされる思いから解放されると言うことが、「罪に対して死んでいる」と言うことなのだと思います。 

キリスト教だけでなく宗教と関係ない一般社会でも悪は、犯罪として罰せられます。しかし、悪と言っても一般社会では法律に定められた犯罪にしかに認められません。一般社会での悪は、相対的なものであり、時代により、国や地域により、社会状況により異なっています。しかし、パウロにおいては、悪の結果としての罪を、法律を守らない犯罪としてではなく、神が生きておられると言うことを前提として、その神と自分との関係がどうであるのかが問題とすると言うことです。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩編143節)。と詩編で書かれているように、人間の現実は、神との関係が破壊されているとパウロは考えるのです。

そのような人間の現実に対して、人間は救われなければならないとの信仰が生まれます。それゆえ、イエスはキリストである信仰告白し、キリストと結ばれているという信仰の中に生きていけるようにと祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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