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忍耐と慰め [説教全文]

ローマの信徒への手紙154

 

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(新共同訳)

 

日本では、単身世帯が増えていると聞きます。なんでも全世帯の40パーセントが単身世帯だそうです。若い世代の人たちは、経済的理由から結婚しない人が増えていると聞きます。年配の人たちは、連れ合いとの死別や離婚などで単身になる人が増えていると聞きます。中には、一生独身で通す人もいるのでしょう。

私は45歳まで、独身でした。連れ合いの中村もそれなりの歳で、世間で言えば晩婚でした。結婚したのは、2005年ですからもう18年経ったのでしょか。二人とも結婚するだけの経済的余裕があったのかと言えば、全くそんなことはなく、まぁ、言ってしまえば成り行きと勢いで結婚したのだと思います。

パウロの言葉に結婚に関する言葉が残されています。「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。」(コリントの信徒への手紙一728節)。「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。」と書かれていますが、新共同訳では「苦労」ですが、口語訳では、「しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。」

この言葉を最初に読んだ当時は、若い時でしたから結婚したらどんな「苦難」が待ち受けているのだろうと恐れていました。それが、晩婚になった理由だとは言いませんが、「苦難」にはあいたくないなぁと思っていました。実際、苦労と苦難の連続の結婚生活でした。お互い歳を取っていたので体にガタがき始めている頃なので、毎年のようにどちらか一方が入院と退院を繰り返していました。勿論、楽しいことが少しもなかったのかと言えば、それなりに楽しいときもありましたが。

全く違った者同士が、同じ屋根の下で生活するわけですから、それまでの生活習慣や趣味の違いなどでぶつかることも多々ありました。しかし、何となくお互いがお互いを受け入れてこれまで何とかやってこられました。それは、お互いに受け身の姿勢があったからなのだと思います。

思えば、人生というものは受け身で始まり、受け身で終わりものなのではないでしょうか。自分が主体的に選んで、この時代に生まれ、この国に生まれ、この両親のもとに生まれてきたわけではありません。いつの間にか私たちの人生というものは始まっていて、そして、死にたいと思っても死ねず、死にたくないと思っていてもその時がやって来るのです。人生は、受け身で始まり受け身で終わるのです。そのことを、聖書を通して、私たちは知らされ、そのような受け身でありながらその自分の人生を引き受けて忍耐を持って生きて行くことを今日の個所で知らされるのではないでしょうか。

聖書の中には、それこそありとあらゆる人生模様が描かれています。この世で生きたそのような人たちの人生を知ることによって、特に信仰に生きた人たちの人生を知ることによって私たちは忍耐と慰めを学んでいくことになるのだと思います。

パウロは、ローマの信徒への人たちに聖書を通して、そのような忍耐と慰めを学んでほしかったのだと思います。違う者同士が生活する、教会で言えば信仰生活、教会生活をすると言うことは、忍耐がいることです。しかし、同時にそこには慰めもあるのです。忍耐すること、そして慰めを受け取ること、受け身の人生である私たちにとってその先にあるのは、神から与えられる希望なのです。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙53節以下)

(柴田良和)


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隣人愛 [説教全文]

ローマの信徒への手紙153

 

キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(新共同訳)

 

30歳と言えば、現代では青年の部類に入るのでしょう。パウロが回心したのは、30歳くらいだと言われています。しかし、古代の人たちの寿命は50歳くらいだったと聞いたことがあります。だとすると、パウロは中年、あるいは壮年と言われる歳に回心しました。壮年と言えば、ある程度自分というものが確立して、物事を判断する能力が固まっていた時期ではなかったかと思います。そのようなパウロでしたが、自らの考えが全く今までと違った方向へと向かったのでした。パウロが回心したのは、幻のうちにイエスと出会ったからです。それまでのパウロは、自分の考えと全く違った生き方をしているキリスト信徒がゆるせず迫害していました。イスラエルの首都であるエルサレムにいたキリスト信徒だけでなく、エルサレムから迫害のためにイスラエル中に逃げて行ったキリスト信徒を捕まえようと追いかけていた時に、幻のうちにイエスと出会い「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」(使徒言行録94節)と言うイエスの声を聞き、その後回心し、自らが迫害していたキリスト信徒になったのでした。

その後のパウロは、ユダヤ教徒から差別されていた異邦人と言われる人々に福音をつたえたのでした。当時の古代世界では、宗教と政治が結びついており、どのような宗教を信じているかが日常生活で決定的に大事な事でした。そもそもパウロはユダヤ教の教育を受けた人でしたが、イスラエルの出身ではなく、異郷の地であるタルススというところで生まれ育った人でした。なぜ、キリスト信徒になってから、ユダヤ教徒以外の人々、異邦人にキリストの福音を伝える者になったのかは分かりません。しかし、もしかしたらタルススという異教の地で生まれ育ったことが影響しているのかも知れません。

キリスト信徒に回心したパウロは、アンティオキアのキリスト信徒の集まりから三回もの伝道旅行をしています。古代世界では、宗教と生活が離れがたく結びついていましたから、パウロがキリストの福音を伝えるというのは並々ならぬ苦労があったのだと思います。パウロがキリストの福音を伝えるために伝道旅行をしたのは、古代ローマ帝国が支配する地中海世界でした。パウロの出身地であるタルススも古代ローマ帝国の支配下にありました。それゆえパウロはローマの市民権というものを持っていました。そのことが思わぬ形でローマへ行くことのきっかけとなったのでした。

三回目の伝道旅行の途中で、パウロは、ローマにキリスト信徒がいることを聞き及んで、ローマに行くことを望んでいたのでした。しかし、三度目の伝道旅行の目的地であるエルサレムで騒動が起こり、パウロはローマの官憲に捕まり、何年かたってローマへと護送されたのでした。使徒言行録では、パウロがローマで軟禁状態でしたが生活をし、ローマのキリスト信徒と交流を持ったことが記されています。地中海世界を伝道旅行で巡り歩きキリストの福音を伝えたパウロは、大変な苦労があったのだと思います。宗教と生活が結びついていた古代世界ですから、地元の宗教との軋轢も厳しいものがあったのだと思います。また、地中海世界に散らばって生活していたユダや教との軋轢もありました。

現代のキリスト教徒は、新約聖書を持っていますが、パウロが活動していた時代の聖書と言えば、旧約聖書でした。今日の「」の「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と言う言葉も69編10節の言葉をパウロが引用して書いたものです。

パウロは、ある程度ローマの信徒の状況を知っていたのか、或いはこれまでの伝道旅行の経験からか、宗教と生活のことに注目します。地元で育った異教徒だった人たちは、神殿に捧げられた肉が市場で売られていたのを躊躇なく食べていましたが、ユダヤ教徒であったキリスト信徒は、ユダヤ教の教育を受けていたので汚れたものとして食べられませんでした。パウロはそのような躊躇なく肉を食べられる人に、目の前で食べることは慎むようにアドバイスしています。

隣人愛とはつまるところ、最も難しいことの一つですが、目の前にいるその人に気をつかうことだと思います。その人の気持ちになって考え感じるというのはよく言われることですが、なかなかできないことです。ユダヤ教の基本は、「『隣人を自分のように愛しなさい。』」です。この短い言葉の中にユダヤ教の基本の精神があり、イエスが大切だとされた戒めであり、パウロを始めとするキリスト教に受け継がれている精神なのだと思います。

(柴田良和)


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向上に努める [説教全文]

ローマの信徒への手紙152

 

おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(新共同訳)

 

世間では「がんばれ」と言う言葉がよく使われます。がんばればなんとかなるとも言われます。しかし、私はこのがんばれという言葉があまり好きではありません。がんばれという言葉をかけられると、もうすでにいっぱい、いっぱいがんばっているのにこれ以上どう頑張れというのだろうかとしんどくなるだろうからです。

今回、中村のことでは、皆さんにご心配とご迷惑をかけ本当に申し訳ありません。約2が月前に緊急入院した時は、退院してからこのような状況になるとは夢にもおっていませんでした。今、毎日が、どうしたらいいのだろうかと途方に暮れることばかりです。

イエスが言われた言葉に「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書/634節)とありますが、目の前のことが精一杯で、このイエスが言われた言葉に慰められています。もはや、自分の力ではどうすることもできないと毎日思い知らされ、神にゆだねるしかないのだろうとある意味開き直っています。

さて、パウロの手紙を読んでいると頑張り屋さんであると言うことがよくわかります。手紙を書いた宛先のキリスト信徒に「がんばれ、がんばれ」と言っていると思えるのは私だけでしょうか。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙/312節以下)

実際、パウロは自主的に当時の古代ローマ帝国の支配下にあった地中海世界を伝道旅行した人です。その伝道旅行の厳しさは想像できないほど厳しいものだったのだと思います。様々な困難や苦難に会い、自分自身で死を覚悟したことが何度もあったのだろうと思います。

そのような頑張り屋のパウロでしたが、がんばりだけではどうすることもできないと言うことを誰よりもよく知っていたのがパウロだったのではないかと思います。なぜならそれが福音の核心だからです。

神が私たち一人ひとりを大切に思っていて下さっている、それゆえイエス・キリストが復活され私たちと共にいて下さっているのだと言うことをパウロはキリスト信徒になる時に知らされたのではなかったかと思うのです。

ところで、聞きかじりの情報ですが、人間の脳は、二百五十年動くそうです。ほかの臓器や器官はそんなには持ちませんが、脳の能力というものは現代の科学をもってしてもまだまだ知られていないことが多いようです。

私も老年と言われる歳になり、まさか人生がこのような展開になるとは思ってもみなかったのですが、しかし、「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」とイエスが言われたように、一日そして一日と過ごしてまいりたいと思います。

死に至るまで、人は成長する者であると信じて。

(柴田良和)


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弱さを担う [説教全文]

ローマの信徒への手紙151

 

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙は、パウロの手紙の中でも、パウロの生涯の中で比較的晩年に書かれた手紙です。パウロは大きな伝道旅行を三回していますが、その三回目の伝道旅行の時に書かれた手紙だと言われています。パウロは基本的には古代ローマ帝国が支配していた地中海世界の範囲内で伝道旅行をしています。古代ローマ帝国が支配していた地域ですから、古代ローマ帝国の首都であるローマの情報もある程度知っていたと思われます。どの段階の時期にローマにキリスト信徒がいることを知ったのかは定かではありませんが、ローマにキリスト信徒がいることを知ったパウロは、手紙をローマのキリスト信徒に書き送ったのでした。ローマのキリスト信徒の中には、もしかしたらパウロの伝道旅行の途中で出会ったことのある人もいたのかも知れませんが、基本的にはパウロにとって顔と顔を合わせたことのない見知らぬ人たちでした。

パウロは伝道旅行で、イスパニア(スペイン)に行くつもりでいたらしく、その途中でローマによるつもりだったようです。「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。」(ローマの信徒への手紙1524節)結局、パウロは、三回目の伝道旅行の目的地であるエルサレムで騒動が起こり、ローマの官憲に逮捕され、何年か後にローマまで護送され、ローマにたどり着きローマのキリスト信者に会うことができたのでした。実際は、ローマの監視下にある軟禁状態であったようですが、使徒言行録には次のように書かれています。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録2830節以下)

さて、パウロはこの手紙を書いた理由を手紙の最初に書いています。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」(ローマの信徒への手紙11節以下)

パウロはその半生を伝道旅行に費やした人でした。そのような伝道旅行の中で只ならぬ苦難にあった人でした。「鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、」(コリントの信徒への手紙二1125節)

そのような苦難の中にあっても尚、パウロが信仰を捨てなかったのは励まし合う仲間がいたからなのだと思います。そしてそれは、お互いの弱さを担い合う仲間だったのだと思います。「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙/65節)

(柴田良和)


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