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哀しみの預言者 [説教全文]

エレミヤ書371116

 

カルデア軍は、ファラオの軍隊が進撃して来たので、エルサレムから撤退した。そのとき、エレミヤはエルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地を相続するために、ベニヤミン族の地へ行こうとした。彼がベニヤミン門にさしかかったとき、ハナンヤの孫で、シェレムヤの子であるイルイヤという守備隊長が、預言者エレミヤを捕らえて言った。

「お前は、カルデア軍に投降しようとしている。」

そこで、エレミヤは言った。

「それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない。」

しかし、イルイヤは聞き入れず、エレミヤを捕らえ、役人たちのところへ連れて行った。役人たちは激怒してエレミヤを打ちたたき、書記官ヨナタンの家に監禁した。そこが牢獄として使われていたからである。エレミヤは丸天井のある地下牢に入れられ、長期間そこに留めて置かれた。

(新共同訳)

 

おはようございます。朝晩は寒くなってきました。お変わりありませんか。今年はコロナとインフルエンザが両方流行ると言われています。予防注射などを受けて、病気にかからないようにしてください。わたしと柴田は火曜日にコロナの4回目の注射をする予定です。

さて、先日は休暇をいただき、ありがとうございました。母に会いに施設にいってきましたが、母はわたしのことはおろか、いつも世話をしに来てくれる妹のことも忘れてしまっていて、ますます認知症が進んでしまいました。でも、顔色が良く、元気そうだったのでほっとしました。所沢市から米寿のお祝いをいただいたのだとか。さらに長生きしてほしいなあと思います。

その後、妹と柴田、わたしの3人で夕食を食べに行きました。久々に妹が中学校時代の話をしていました。妹は、成績は抜群だったのに、教師に反抗をする生徒で、当時は不良の恰好だった長いスカートに、色付きの靴下をはいて登校し、母が担任の先生に呼び出され、叱られた話をしていました。理不尽なことで叱る教師がいて、それで妹は反抗をしていたのでした。 

姉であるわたしは、普段は真面目で通っていましたが、ある日、国語の先生の悪口を書いた紙が回ってきて、それを読んでいたら、先生に見つかり、職員室で1時間、仲間と一緒に正座をさせられたことがありました。まったくの冤罪だったのですが、一緒に座らされている仲間もほとんどが冤罪だったので、ひとりだけ逃れるわけにもいかず、仕方なく正座しました。足がしびれて歩けなくなったのをよく覚えています。

さて、今日の聖書は、エレミヤがユダヤの役人に冤罪を着せられ、監禁されたお話です。神さまの言葉をつたえていたエレミヤが、なぜ牢獄に監禁され、打ちたたかれたのか、それこそ冤罪だったのです。

カルデア軍、つまりバビロンの軍隊は、ファラオの軍隊すなわちエジプトの軍隊が進軍してきたので、エルサレムから撤退しました。曽於の頃、エレミヤはエルサレムを出て、自分の親族との間で、ふるさとの所有地を分配し、相続するためベニヤミンの地へ向かおうとしました。そして、エレミヤがベニヤミンの門に差し掛かった時に、ハナンヤの孫でシェレムヤの子であるイルイヤという軍隊の守備隊長がエレミヤを捕えてこういったのです。「お前は、カルデア軍に投降しようとしている」。エレミヤはそれを打ち消して言いました。「それは違う。わたしはカルデア軍に投降したりはしない」。けれどもイルイヤはそれを聞き入れずに、エレミヤを捕え、役人たちのところへ連れていったのです。役人たちは、イルイヤの勘違いをそのまま受け入れて、エレミヤを打ちたたき、書記官ヨナタンの家に監禁しました。そこは日ごろ、牢獄として使われていたところだったからです。エレミヤは丸天井のある地下の牢屋に入れられ、長い間そこに留め置かれました。

エレミヤは、若い頃、神さまの言葉を聞いて、人々に伝えなさいと言われました。エレミヤは、一度は「わたしは若すぎます」と言って断ったのですが、「若すぎると言ってはならない」と神さまにたしなめられ、この重たい役目を引き受けることにしました。引き受けたら引き受けたで、神さまの御言葉を伝えるエレミヤを人々は迫害し、何度も牢屋にいれたり、石を投げたりしました。悪いことは何もしていないのに、冤罪をかけてエレミヤを苦しめたのです。

こんなエレミヤは、後の世に現れる誰かに似ていないでしょうか。エレミヤは、その言葉でメシヤの誕生を示しただけでなく、その生きざまでイエスさまの姿を示したのではないだろうかと思うのです。打ちたたかれ、最後にはエジプトで殺されてしまうエレミヤ。メシヤが、みんなが待望しているメシヤが、十字架につけられて殺されてしまうという哀しい知らせを、体をもって預言したエレミヤだったのです。人はエレミヤのことを「哀しみの預言者」と呼びます。エレミヤがしめしたのが「哀しみのメシヤ」だったからではないでしょうか。

神さまの御言葉が、なぜ受け入れられないのでしょうか。それは人間が望んでいることと、神さまが望んでおられることが違うことが多いからかもしれません。たとえばメシヤのことについても、人々はダビデのように戦争に強い、悪党を打ち倒す強いメシヤを望んでいたのです。イエスさまが、ユダヤの人々をまとめて、ローマ帝国と戦い、自由を手に入れることを期待していたのです。しかし、イエスさまは違いました。弱いものに寄り添い、イザヤが預言したように、人の苦しみや哀しみ、痛みを知っている優しいメシヤは、人々の待ち望んでいたメシヤではなかったのです。神さまが与えられたメシヤは、人々が期待していたメシヤではなかったのです。それで人々はイエスさまを十字架につけ、殺してしまったのです。神さまが望んでいた愛にあふれたメシヤは、人々の望んでいた強いメシヤではなかったのです。

エレミヤのように、神さまの御言葉を語ったのに牢獄に入れられ、苦しめられた人は他にもいます。使徒パウロがその一人です。パウロもまた、神さまのみ言葉を語ったのに、エペソで、ピリピで、そしてエルサレムで投獄され、ローマに護送され、監禁され、やがてそこで処刑されたと考えられています。パウロの語る神さまのみ言葉は、時に人々の営業妨害になり、今までの生活習慣を否定することとなり、人々の反感を買うことになったからです。

エレミヤは神さまの厳しい言葉だけでなく、「バビロンから解放される日が来る」という希望の言葉をも人々に伝えました。神さまは決してイスラエルの人々を見捨てたりしないという、愛に満ちた言葉をも伝えました。それなのになぜ、その御言葉が喜んで受け入れられなかったのでしょうか。

それは人々の不信仰のゆえだったのではないでしょうか。神さまがわたしたち人間を愛していてくださるということを忘れ、わたしたちに罰を与えて苦しめると思いこみ、神さまから背をむけて、それゆえにエレミヤを憎み、捕まえて牢屋に放り込み、打ちたたいて苦しめたのです。それは、神さまを打ちたたくのと同じ事なのです。

わたしたちもまた、神さまの御言葉を語る時に、人に馬鹿にされたり、悪口を言われたりすることがあるのではないでしょうか。今の世の中は、信教の自由が保証されていますから、イエスさまを信じているからといって、投獄されるようなことはありません。でも、聖書の言葉に従って生きようとするときに、生きづらさを感じることがあるでしょう。きれいごとをいうなと言われて悲しむこともあるのではないでしょうか。

そんなとき、悲しみの預言者エレミヤを思い出してください。悲しみのメシヤ・イエスさまを心に迎えてください。神さまの思いは、人の思いをはるかに超えたところにあります。それを理解することは、人間にはとても難しいことなのです。でも、真実はきっと伝わる日がきます。かみさまの御心がなる日が必ず来ます。神さまの思いが示される日が来るまで、わたしたちもまた「悲しみの預言者」の役割を背負うことになるのだと思います。それでも、神さまのみ言葉を伝えていくならば、いつかきっと理解される日が来るのだと思います。

(中村尚子)


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心と、心と心 [説教全文]

ローマの信徒への手紙1415

 

あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。(新共同訳)

 

先々週は、休暇をいただきありがとうございました。9日の日曜日には、埼玉の所沢教会の礼拝に出席させていただきました。以前は、ぎっしりと席が埋まるくらい出席しておられましたが、間を空けて出席しておられました。半数位の方がリモートで礼拝に参加しておられるようです。まだしばらく、後早くて四・五年は、以前のように人と人とが密接した状況での礼拝はできないのだろうなと思います。しんどいことですが、まだしばらくの間は気をつけて過ごしてまいりましょう。我が家にも四回目の接種券が届き、11月の初めには接種を受けます。さて、埼玉に帰省するとき新幹線で東京まで行ったのですが、早いですね。のぞみですか。まだ私は、2回くらいしか利用したことがないのですが、大阪から東京まで2時間半ですからアッっという間ですね。小学校2年生の時にもう新幹線は通っていたのですが、父方の実家、栃木ですが、に行きしなは、10時間くらい特急に乗って行ったのを覚えています。帰りは祖父が東京まで見送ってくれて新幹線のひかりに乗って帰りました。あの当時で新大阪まで3時間半くらいの時間だったでしょうか。なんでも、2040年くらいには、リニア新幹線なるものができるそうで東京、京都間を1時間だか、30分だかで移動できるようになるそうです。でもよく考えてみると、確かに便利になり、移動の時間が短くなってきていますけれども、かといって私が持っている時間が、どんなに移動が速くなったからといって増えるわけではありません。歩こうが、最新の乗り物に乗ろうが私の一時間は、昔も今も私の一時間は一時間なのです。

さて、ローマの信徒への手紙を読み進んでいます。この手紙の執筆者であるパウロは、その半生を、旅をして過ごした人でした。二千年以上前の当時は、陸では乗り物と言えば、馬車や馬、ロバと言ったところでしょうか。パウロが旅をしたのは、古代ローマ帝国が支配していた地中海世界ですが、海がありますから船も使いました。当時としては最新の科学を使って造られた船にも幾度となく乗ったことでしょう。

宗教と科学は近代になって対立しているかのような風潮もありましたが、いつの時代も宗教家たちも最新の科学を利用して生活していました。そうでなければ、日本に仏教もキリスト教も伝わらなかったのです。科学に耳を貸さない宗教は滅びていくだろうし、宗教に耳を貸さない科学は人類を滅ぼすものとなるのだと思います。

「どうぞのいす」という題名の絵本があります。コロナ感染症が始まってすぐ、ある教会でどうその机というのを始めましたが、この「どうぞのいす」がヒントになったようです。あらすじは。ウサギが椅子を作って、大きな木のそばに起きました。椅子のそばに「どうぞのいす」というたて札を立てておきました。しばらくすると籠に一杯のどんぐりを背負ったロバが通りかかり、立札を見て、椅子の上にどんぐりの籠を置いて一休み。すると今度は、蜜のツボを持ったクマが現れ、どんぐりを食べえしまった代わりに蜜のツボを置いていきました。今度はきつねが現れ、蜜をなめてしまいました。代わりにパンを置いていきました。今度はリスたちが現れました。リスたちは、パンを食べてしまいました。代わりに栗を置いていきました。そして、木の下で昼寝をしていたロバが椅子のところに言ってみるとどんぐりがクリになっているのを見て驚いたのでした。心が連なっていくとても素敵な物語だと思います。

多くの宗教では食べ物規定があります。日本で有名なところでは、仏教の精進料理があります。ユダヤ教の律法にも食べ物規定があって、厳格なユダヤ教徒の人たちやイスラームの方たちは豚肉を食べないのだそうです。

ローマの信徒への手紙を書いたときのローマのキリスト信徒の状況も市場で売られている肉を食べるか食べないかという食物のことに関して問題となっていました。一部のキリスト信徒のひとたちは、異教の神にささげられて売られていた肉を食べることに躊躇していました。一方で、別のキリスト信徒の人達は躊躇がありませんでした。今日の個所は、この躊躇がある人達のことを躊躇がない人たちが配慮するようにとのパウロの忠告です。

(柴田良和)


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恐れるな [説教全文]

エレミヤ書462728

 

わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。

イスラエルよ、おののくな。

見よ、わたしはお前を遠い地から

お前の子孫を捕囚の地から救い出す。

ヤコブは帰って来て、安らかに住む。

彼らを脅かす者はいない。

わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと

主は言われる。

わたしがお前と共にいる。

お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。

お前を滅ぼし尽くすことはない。

わたしはお前を正しく懲らしめる。

罰せずにおくことは決してない。

(新共同訳)

 

おはようございます。やっと秋らしい気候になってきました。テレビでは滋賀県のコスモスの花畑が映し出されていて、赤、白、ピンクのコスモスが群れて咲いて大変美しかったです。コスモスは枝が細くて、はかなげな感じがしますが、かつて広島の片田舎で、台風が過ぎた後、コスモス畑に行くと、風でなぎ倒されたはずのコスモスが、しっかりと立って花を咲かせているのに感動したことがあります。コスモスのしなやかな強さをわたしも持ちたいと思っています。そういえば、天に召された柴田の母が、コスモスが大好きで、お別れの会(葬儀)に飾る花の中にコスモスを入れてほしいと葬儀屋さんに頼んだら、たくさん入れてくれたのを思い出します。わたしも、自分の葬式が秋だったら、赤、白、ピンクのコスモスをたくさん生けてもらいたいと思っています。

さて、エルサレムのユダヤ人たちは、手に鎖を付けられてバビロンに連れ去られました。エルサレムに花咲いた人々は、まるで根っこを脱がれてバビロンに植えられたように、バビロン捕囚にあったのです。彼らはいつになったら母国エルサレムへ戻ることができるのかわからずに絶望していました。彼らはバビロンの川のほとりに座り、琴を奏でながら、イスラエルの讃美歌を歌って涙を流していたといいます。もちろん、年をとった捕囚民は残念ながらバビロンで生涯を終えることになりました。しかし、彼らの子どもや孫たちは、敗戦から70年、バビロン捕囚になってから50年たって、エルサレムに帰ることができたのです。

 

今日の聖書は、神さまがユダヤ人たちを捕囚の地バビロンから、エルサレムに連れ帰るという約束の言葉です。バビロンに連れ去られたからといって、わたしの僕ヤコブよ恐れるな、と神さまは言われました。わたしの僕ヤコブとは、アブラハム、イサク、ヤコブのヤコブで、その子孫であるユダヤ人たちのことを言っているのです。また、イスラエルよ、おののくな、とも神さまは言われています。なぜなら、神さまがユダヤ人たちの子孫を、遠くの捕囚の地バビロンからエルサレムに連れ帰るからです。彼らは捕囚の地から救い出されるのです。

ユダヤ人たちは帰ってきて、安らかに住む、と神さまはエレミヤに告げました。彼らを脅かす者はいない、と。実際の所、エルサレムに帰ったユダヤ人たちは、周辺諸国の民に剣で命を狙われることはあったのですが、逆に、神殿を建て直している彼らを助けようとして、多くの外国人たちがやってきて、作業を手伝い、助けたのでした。

神さまは繰り返し言われます。「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。わたしがお前と共にいる」。ここですでに、インマヌエル、わたしかあなたと共にいる、という言葉が出てきます。イエスさまがインマヌエルの主であったように、父なる神さまもまた、インマヌエル、共におられる主なのです。たとえ、人々が遠くバビロンに連れ去られても、神さまはそこでも共にいてくださるのです。

そして神さまはエレミヤに告げます。お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。お前を滅ぼし尽くすことはない。ユダヤ人たちを連れ去ったバビロンの国はやがてペルシャによって滅ぼされます。そしてペルシャの王キュロスは、ユダヤ人たちを解放し、エルサレムに戻し、バビロンが略奪した宝石や器などの宝物をもって帰らせ、エルサレム神殿を再建するよう命令を出します。ユダヤ人たちは喜び勇んでエルサレムに帰り、崩れ果てた神殿を建て直します。今、祈祷会でエズラ記を学んでいますが、先週はちょうど、神殿が建て直されたところを学んだばかりです。再び立ち上がった神殿を見て、エルサレムの民は喜び踊りました。以前に立っていたソロモンの神殿の姿をおぼえている一部の老人たちは、それに比べたら見劣りのする貧しい神殿を見てがっかりするのですが、若者たちは第2神殿に大喜びします。

一方で、ユダヤ人たちを追いやった国々を神さまは滅ぼし尽くす、と言われています。具体的には、バビロニアのことだと思われますが、バビロニアは大きな勢力を持ったけれども、やがてもっと強い国ペルシャによって滅ぼされてしまいます。このことがなかったら、ユダヤ人たちは母国イスラエルに戻ることはできなかったでしょう。神さまはなんだか回り道をされる方のようですが、イスラエルがそれまでの罪、たとえば偶像崇拝の罪、戦争を起こした罪、神さまに背を向けた罪などを、悔い改めさせるために、バビロン捕囚に合わせたのではないでしょうか。

神さまはこうもおっしゃっています。「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくことは決してしない」。神さまはユダヤ人たちを正しく懲らしめると言われます。どんな罪を犯しても「いいよ、いいよ。赦してあげる」と言って甘やかすのではなく、悪いことをしたのであれば「ごめんなさい」を言わせる、悔い改めをさせることを、決してお忘れにならない神なのです。悔い改めをする者を赦し、大事にバビロンから持ち帰り、そっと植えて育てる。そんな神さまが、わたしたちの神さまなのです。親がわが子を愛しているからこそ叱る、それと同じ愛を持った神さまなのです。

エレミヤはこれらの言葉を、ユダヤ人たちに語りました。同じエレミヤ書の17節に「わたしが命じることをすべて語れ」と神さまがおっしゃっている、その通りに、エレミヤは神さまの言葉をユダヤ人たちに伝えました。エレミヤの伝えた言葉を、神さまの言葉として受け入れた人々もいました。でも、多くのユダヤ人たちは、エレミヤの言葉を受け入れませんでした。エレミヤは迫害され、広場で石を投げられ、うそつきとはやし立てられました。エレミヤの伝えた言葉が真実であったとわかったのは、エレミヤがエジプトで非業の最後を遂げたあとでした。そのためか、エレミヤは「哀しみの預言者」と呼ばれています。神さまの教えを守ったのに、苦しめられたからです。

神さまは僕ヤコブ、イスラエルの人々を愛して、根っこを枯らさないように人々を守り、バビロンの土からそっと抜き、エルサレムの土にそっと植えられたのです。エルサレムに帰還するまでにはとても長い時間が必要でしたが、神さまは決して約束を破ることなく、イスラエルの民を救い出し、エルサレムへと戻されたのでした。

このバビロン捕囚の出来事の後、イスラエルがエルサレムに帰ってから、人々の信仰は建て直されたのでした。聖書、今でいう旧約聖書がまとめられ、エルサレムの街中の公園で人々が集まって、律法を学びなおしたといいます。また、建てなおった神殿で歌うために、讃美歌がたくさん作られ、それがまとまって、わたしたちも持っている詩編に編集されたのです。また、このころ、悔い改めの献げもので、牛や羊、山羊が献げられるようになったそうです。神さまを礼拝するためのスタイルが整えられていったのが、バビロン捕囚から帰還する頃のことです。人々は、この苦しい出来事のさなか、信仰を鍛えられたのではないかと思います。

わたしたちも、生きている間、さまざまな試練に遭うことがあります。しかし、その試練によって試し、練られたわたしたちは、信仰を鍛えられ、新しい賛美の歌を与えられ、神さまとの強い絆が与えられるのではないでしょうか。

神さまは、いつ、どんな時でも「共にいて」くださるのです。だから、恐れるな、と神さまは言われます。神さまは困難からわたしたちを連れ戻し、平安の中にわたしたちを置いてくださるのです。

わたしたちも、生きている間、さまざまな試練に遭うことがあります。しかし、その試練によって試し、練られたわたしたちは、信仰を鍛えられ、新しい賛美の歌を与えられ、神さまとの強い絆が与えられるのではないでしょうか。

神さまは、いつ、どんな時でも「共にいて」くださるのです。だから、恐れるな、と神さまは言われます。神さまは困難からわたしたちを連れ戻し、平安の中にわたしたちを置いてくださるのです。

(中村尚子)


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主は答えられる [説教全文]

エレミヤ書4216

 

カレアの子ヨハナンとホシャヤの子エザンヤをはじめ、すべての軍の長と民の全員が、身分の上下を問わず、訪ねて来て、預言者エレミヤに言った。「どうか、我々の願いを受け入れてください。我々のため、またこの残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください。御覧のとおり、大勢の中からわずかに、我々だけが残ったのです。あなたの神である主に求めて、我々に歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです。」

預言者エレミヤは答えた。「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします。」

すると、人々はエレミヤに言った。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」

(新共同訳)

 

おはようございます。朝晩は涼しくなりました。そろそろ、わたしの好きな金木犀の花が咲き、香りが漂ってくるころかなあと思います。秋の果物も楽しみですが、わたしは腎臓が悪いので、カリウムの制限があり、生の果物は少ししか食べられません。でも、柿や梨を、ぶどうなどを食べるのが楽しみです。秋は短いですが、いいですね。

さて、本題に入る前に余談です。4か月ほど前から、友人のお誘いを受け、朝、20分ほど、ラインでお祈りをするプログラムに参加しています。今年の連盟総会も紙面上で行われますが、その総会に向けて、総会牧師の、九州にある直方バプテスト・キリスト教会の牧師、田中伊策さんが「つながるチャンネル」というお祈りの番組をはじめました。ライブの中継は朝615分から20分ほどですが、寝坊をしてそれを逃しても、昼、夜もいつでも同じ放送が聞けます。最初に、聖書教育の聖書日課を田中先生が読み、次に「世の光」の聖書日課と、その聖書からのメッセージが読まれ、お祈りに入ります。身の回りの教会員をおぼえるような、牧会的なお祈りをしたり、連盟の事務所の職員の方々や理事会、全国の教会伝道所を毎日一つずつ覚えて祈ったりします。東大阪教会も2か月ほど前に祈られていました。そのほか、連盟の色々な委員会、先週の静岡の教会のように、災害にあった教会も覚えて祈ります。その後、2~3分一人一人が祈る時間が設けられ、最後に主の祈りを唱和して終わります。朝早いので、洗濯機を回しながら祈ることもありますが、4か月も続くと習慣化してきます。朝祈らないと落ち着かなくなります。それまで昼や夜に祈っていたわたしにとっては良い訓練になっているように思います。

さて、本日のお話に入ります。先週、エルサレムの人々がバビロンに鎖につながれ、連れ去られるお話をしました。その途中で、エレミヤは鎖を解かれ、エルサレムに戻ってきたのでした。バビロンに行くか、エルサレムに戻るか、自分が良いと思う道を決めなさいと言われ、エレミヤは多くの貧しい人々が残されているエルサレムに帰ることにしたのです。今日の聖書はその続きの物語でもあります。

カレアの子ヨハナンと、ホシャヤの子エザンヤをはじめとして、すべての軍の長と民の全員が、身分の上下を問わず、エレミヤのところを訪ねてきました。彼らは、自分たちの願いを受け入れてほしいと、絵エレミヤに頼みます。「我々のため、またバビロンに連れて行かれずに残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください。あなたの神である主に求めて、我々の歩むべき道、なすべきことを示していただきたいのです」。エルサレムの民の多くは、手を鎖でつながれて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムに残ったのは、「残りの民」と呼ばれる、ごく少数の貧しい、弱い人々でした。彼らはこの先、どうしたらよいのか、どこに行けばよいのか、わからないまま迷っていたのです。それで、エレミヤの所にやってきたのです。

そこで預言者エレミヤは答えて言いました。「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう」。残りの民たちは「あなたの神である主」と言いましたが、神さまはこの残りの民の神、主でもあるのです。それで、「あなたたちの神である主に祈りましょう」と答えたのです。消えかかったろうそくのような民の信仰が、もう一度よみがえるように、エレミヤは答えたのです。

そしてエレミヤは言いました。「主があなたがたに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします」。エレミヤの預言者としてのモットーは、神さまのおっしゃったことをそっくりそのまま民に伝えるということでした。いつものエレミヤのように、神さまの答えが聞こえたら、そのまま民に伝えると約束したのです。

すると、人々はエレミヤに言いました。「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのです」。人々はエレミヤの神を自分たちの神として信じ、聞き従うことを誓うのでした。

この後、エレミヤは10日祈ってやっと神さまの答えを聞きました。答えは「エルサレムにとどまれ」ということでした。もしエルサレムにとどまるなら、あなたがたを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」。もうこれ以上エルサレムは破壊されることはないのです。残りの民である人々は、貧しさの中でも神さまに従って生きることになります。そして戦争に負けてから70年を数えるころ、バビロンに連れ去られた人々の多くがエルサレムに戻ってくるのです。

行く道に迷った時、どう行動したらよいかわからない時、神さまに祈って、方向をしめしてもらうことがありますか? 私は6年前、子宮頸がんを告知されたとき、ドクターに、手術をするか、放射線治療をするか、抗がん剤治療をするか、3つのうち1つに決めてくださいと言われました。わたしはドクターの質問に即決しなければならなかったのですが、3つの治療法でどう効果が違うのかよくわかりませんでした。とっさに、心の中で「神さま、わたしの行くべき道を教えてください」と祈っていました。そして、一番効果的な治療は何ですかとドクターに聞くと「そりゃあ、手術が一番確実ですよ」と言われました。わたしはそれを神さまの答えと思って、手術することに決めました。そして1か月後、子宮と卵巣、リンパ節を切除する手術を受けて、今まで再発はありません。

人生の中で、分かれ道に立つことはたびたびあります。エレミヤ616節にも、こんな言葉があります。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道か、その道を歩み、魂に安らぎを得よ」。口語訳の方が、親しみがあるかもしれません。「分かれ道に立ってよく見…」という言葉です。連盟の靖国問題特別委員会の広報誌の題名となっている言葉です。

エルサレムの残りの民は、バビロン捕囚によって多くの人々がエルサレムを去り、取り残されたときに、どのように生きたらよいのか、迷い悩んで、エレミヤの所にやってきたのです。祈りによって、神さまに進むべき道を示してもらいたいと、エレミヤに願ったのです。そして、10日後、エレミヤは神の言葉を聞きます。「エルサレムにとどまれ」と。それ以来、この残りの民はエルサレムに残り、神さまの示してくださる道を尋ねながら、御心にかなう働きをしたのです。だから、イザヤ書などでも「残りの民」というのは、貧しく弱いけれど、神さまを信じる人々という意味で使われているのです。

先週は、「あなたの良いと思う道を行きなさい」という箇所でした。自分が良いと思う道は、なかなか決められないものです。そのためには、聞こえるまで、神さまの御声を尋ねて祈り、神さまの御声が聞こえたら、神さまの示される方向へ歩みを進めるべきなのです。それでも、エレミヤでさえ、10日かけてやっと神さまの答えが聞こえたのです。神さまの御声を聞くには、祈って、祈って、あきらめずに祈るしかないのだと思います。

この後、残りの民はエルサレムに残りますが、エレミヤはエジプトに連行されてしまいます。そこで処刑されてしまうのです。しかし、エレミヤの語った言葉、すなわち神さまの言葉はすべて書きとられており、特に、バビロンに連れ去られた人々の子孫が、エルサレムに戻る日が来ることを語った言葉は、民の心を慰めました。エレミヤは最後まで、神さまの言葉を聞いて伝える仕事を全うしたのでした。

わたしたちもすべて自分の思いから動くのでなく、その前に、神さまに問いかけて答えをいただいて進みたいと思います。

(中村尚子)


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