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義とされるために [説教全文]

ローマの信徒への手紙425

 

イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(新共同訳)

 

十字架刑と言う無残な処刑でイエスは殺害されました。イエスの故郷であるイスラエルでも辺境の地であるガリラヤ地方からイエスに従って来ていた弟子たちは失望の中にいました。イエスと生活を共にし、イエスから様々のことを教えていただいた弟子たちでした。その弟子たちは、イエスが権力者たちから逮捕されるときに逃げ出したのも弟子たちでした。イエスが十字架刑にされた後、エルサレムの権力者たちは、目の上のたんこぶであったイエスが亡くなられたことによって、自分たちが脅かせられることはなくなったと思ったのだと思います。しかし、暫くして、イエスの弟子たち、仲間たちは、無残に殺害されたはずのイエスが復活されたと証言し始めたのでした。当時のイスラエルにいたユダヤ教徒には、他にも色々と派閥がありましたが、その中でも大きな派閥は、ファリサイ派とサドカイ派と呼ばれた人たちでした。サドカイ派は、エルサレム神殿に拠点を置き、貴族階級の人たちでした。一方、ファリサイ派は民衆運動から始まった人たちでした。死人の復活に関しては、サドカイ派は信じていませんでしたが、ファリサイ派は信じていました。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロはファリサイ派の人でした。ですから子供の時からファリサイ派での教育を受けて来ていたパウロにとって死人の復活に関しては、抵抗なく信じていたものと思われます。そのようなパウロでしたから死人の復活に関しては、疑問の余地がないほど信じていたものと思われます。パウロの手紙が、新約聖書の中には多く残されていますが、その手紙の中で、パウロは、多くのことを語っています。パウロが伝道旅行で出会った町々のキリスト信徒の中には、死人の復活が信じられない人たちも多くいたものと思われます。そのような人たちに対してパウロは手紙の中で、次のように言っています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。・・・しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリントの信徒への手紙一1512節以下)

イエスが十字架で処刑されてから悲嘆に暮れ、最後までイエスに従うことができずに逃げ出したイエスの弟子たちでしたが、公にイエスが復活されたことを証言し始めた弟子たち。その弟子たちの証言を引き継いで、パウロもまた、イエスが復活されたことを信じたのでした。

現代の私たちにとっても、常識的に考えれば、死人が復活すると言うことは、キリスト教徒でない人たちにとっては、どこかのおとぎ話のように聞こえるのかも知れません。キリスト教の伝統的な解釈からすれば、体がよみがえると信仰告白されています。正統なキリスト教と言われる信徒の人たちが信じている使徒信条には次のように信仰告白されています。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。」(「新聖歌」より)。何か目に見えない、私たちの五感で感じることのできない幽霊みたいなものに復活するのではなく、肉体を持った身体によみがえると使徒信条では信仰告白されているのです。

パウロは、ローマの信徒への手紙の4章からアブラハムの信仰、すなわち常識的には不可能と思われることを可能とされる神のことを信じる信仰を多くの言葉を使って語ってきました。アブラハムに常識では不可能だと思える子供が授けられること、その神の約束に信頼し、生きたアブラハムの信仰をパウロは語ることによって、イエスが復活されたこともまた、常識的には不可能と思えることを可能とされる神に信頼し、イエスが神によって復活させられなさったことを信じる信仰をローマのキリスト信徒の人たちに語ろうとしたのだと思います。イエスが神によって復活させられたという信仰告白は、私たちキリスト信徒にとって希望です。私たちもまた復活させてくださるという希望です。そのような希望が与えられ続けていくことができるように祈り願ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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信仰による義 [説教全文]

ローマの信徒への手紙42324

 

しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。(新共同訳)

 

古代ローマ帝国が支配していた地中期世界を伝道旅行していたパウロでした。その伝道旅行の途中で、パウロは古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることを知ったのでした。いまだ顔と顔を合わせて出会ってはいないローマのキリスト信徒にパウロは手紙を書き送りました。パウロがそれまでに伝道旅行で経験してきたことを含めてまだ見知らぬローマのキリスト信徒に手紙を書き送ったのは、いずれローマを訪れたいと思っていたからでした。パウロがローマのキリスト信徒に手紙を書き送ったのは、「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(ローマの信徒への手紙111節以下)と書かれているように、パウロは信仰について、また福音についてローマのキリスト信徒と親しく語り合いと思っていたからでした。

ローマにキリスト信徒がいることを知っていたパウロは、ただ信徒がいると言うことを知っただけではなく信徒がどのような状況であったのかもある程度聞き及んでいたのだと思われます。ローマにキリスト信徒がいたこと、同じ信仰をもっている人たちがいたことを知ったパウロは喜んでいたのだと思います。それと同時にローマのキリスト信徒の状況もこれまでのパウロの伝道旅行の経験から、ある程度の想像はできたのだと思います。

当時の古代ローマ帝国が支配していた世界では、ローマ皇帝を神とする皇帝崇拝が中心でした。そんな中でキリストを福音の中心とする神を信じていると言うことは、大多数の世間の人たちから異端視されていたようです。それだけでなく、ローマのキリスト信徒の人たちの一人一人の個人的な苦難もあったことでしょう。仏教用語で四苦八苦と言う言葉がありますが、ローマのキリスト信徒の人たちもまた、生きることの苦しみ、老いていくことの苦しみ、病気になっていることの苦しみ、そして死んでいくことの苦しみなど、一人一人が個人的な苦しみを抱えながら信仰生活を送っていることをパウロはこれまでの伝道旅行の経験から容易に想像できたのだと思います。

そのようなパウロでしたから、ローマのキリスト信徒の人たちと互いに励まし合いたいと思ったのだと思います。その前提としてパウロは手紙を書いて、ローマのキリスト信徒の人たちのためになる何事かを語りたいと思ったのだと思います。そして、ローマのキリスト信徒の間で妨げとなっている仲たがいをせずに信仰生活を送ることができるように、互に励まし合って信仰生活を送ることができるようにと多くの言葉を使ってローマの信徒への手紙を書いたのでした。

パウロの信仰の中心は、神への信仰でした。しかも主イエス・キリストを復活させられた神、アブラハム、イサク、ヤコブが信じた神でした。そのアブラハムが信じた信仰をパウロは次のように書いています。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマの信徒への手紙41節以下)。

「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」とパウロは言います。ここで重要なことは信仰が優れている人ではなく、「不信心な者を義とされる方を信じる人」の信仰が義と認められる、つまり、正しい者とされると言うことです。

「神も仏もあるものか」と言う言葉を世間ではよく耳にいます。特に現世での様々な苦しみの中にある人が良く口にする言葉のように思います。しかし、そのような「神も仏もあるものか」と言わざるを得ない苦しみの中にある人にこそ神は共にいて下さって寄り添っていてくださっているのだというパウロの信仰があるのだと思います。

信仰は自分の信念や思い込みではないのだと思います。その時々に神から与えられる神への信頼なのだと思います。神から与えられるものですから、信仰は神のものであり、誰も自分の信仰を誇ることはできません。不信心の中にあっても共に私たちの苦しみを共にしてくださっているイエスを復活させてくださった方、神を信じていくことができる希望が与えられるように願っていきたいものです。

(柴田良和)


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義と認められた [説教全文]

ローマの信徒への手紙422

 

だからまた、それが彼の義と認められたわけです。(新共同訳)

 

パウロはローマのキリスト信徒に手紙を書き送りました。パウロは古代ローマ帝国が支配する地中海世界を伝道旅行しました。パウロは地中海世界の多くの町を訪れ、その町の人々と交流を持ち、キリストの福音を伝えたのでした。

新約聖書の中にはパウロが書いたとされている多くの文書がありますが、そのほとんどはローマの信徒への手紙以外は、一度は訪れたことのある町のキリスト信徒に宛てて書かれたものです。そういった意味では、ローマの信徒への手紙はパウロの手紙の中でも特殊なものです。パウロは、伝道旅行の途中で、古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることを知り、手紙を書き送ったのでした。ローマのキリスト信徒の状況を何らかの形である程度知っていたものと思われます。ローマのキリスト信徒の中には、ユダヤ教徒のキリスト信徒もおり、ギリシア人を始めとするユダヤ教徒以外の人たち、ユダヤ教徒からは異邦人と呼ばれていた人たちもいました。

ローマのキリスト信徒の中のユダヤ教徒は、いまだ割礼を始めとする律法の掟から自由ではありませんでした。それゆえ、ユダヤ教徒のキリスト信徒と異邦人のキリスト信徒の間にもめ事があったのかも知れません。その具体的な事として、異教の神々にささげられ、市場に卸されていた肉を食べてもよいのかどうかと言った生活の中での具体的な問題がありました。この事に関しは、ローマの信徒への手紙の後半部分でパウロの自身の意見が多くの言葉を使って語られています。いずれにせよ、パウロがそこで言われていることは、どのような立場であれ弱い人たちに対して生活するようにと勧められています。そして、その生活とは神への信仰に基づいた生活であり、キリストの福音を信じる信仰に基づいた生活のことでした。このことを言わんがためにパウロは、アブラハムと言う信仰の原点である人に注目して言葉を語ります。

アブラハムに関しては、自分たちが信じている神がどのような方であるのかを知るのに重要な人物です。旧約聖書の中で繰り返し、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と語られているように、アブラハムが信じ、イサクが信じ、ヤコブが信じた神が、自分たちが信じる神でした。その信仰の原点であるアブラハムにパウロは注目し、アブラハムがどのような人物であったのかを語ることによって、ローマのキリスト信徒の中にあるユダヤ教徒であるキリスト信徒と異邦人であるキリスト信徒とのわだかまりをなくし、同じ神を信じるキリスト信徒として信仰生活をするようにと言葉をつないでいます。ローマの信徒への手紙の4章11節以下では次のようにパウロは書き送っています。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」(ローマの信徒への手紙411節以下)。

キリスト教はユダヤ教を土台として誕生しています。キリスト教徒が現在、経典としている旧約聖書は、ユダヤ教の教典でもあります。そして、パウロが活動していた当時のキリスト信徒の唯一の教典は旧約聖書でした。その旧約聖書の中で繰り返し語られているアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、キリスト教徒の神でもあるわけです。その信仰の始まりであるアブラハムが信じた神は、アブラハムが過去にどのような人物であり、何をしたのかは関係なく、神が一方的にアブラハムに語り掛けられ、祝福の約束を与えられた神でした。その神に信頼し、ゆだね切って、神が語り掛けられた通りに行動を起こし、その信仰生活の中で神を証ししたのが、アブラハムでした。アブラハムのそのような姿勢が、神によって正しい者、義と認められたのだとパウロは語っているのだと思います。

様々な信仰的立場や生活習慣の違いはあるでしょう。しかし、アブラハムが信じた神を信じる、同じ神を信じる信仰へと立ち返り続けていく、そのような神の導きがあることを信じて祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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約束を実現する力 [説教全文]

ローマの信徒への手紙421

 

神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(新共同訳)

 

礼拝では、ローマの信徒への手紙を読み進んできています。ローマの信徒への手紙の4章からは、ユダヤ教徒から「信仰の父」として尊敬されているアブラハムの話が続いています。パウロもまた、ユダヤ教徒でしたから子供の時からアブラハムのことは学んでいたものと思われます。特にパウロは、使徒言行録によれば、エルサレムで育ちそこで律法の教師の下で教育を受けたとされています。「「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。」」(使徒言行録223節)このことからも、パウロは多くのことをアブラハムに関して学んでいたのだと思います。聖書の中には、出エジプトのモーセ、最初のイスラエル統一王国の王であるダビデ、預言者であるイザヤと言った代表的な人たちがいます。勿論、パウロはこれらの人たちのことも学んだのでしょう。パウロの手紙の中にはこれらの人たちの名前もたびたび出てきています。

しかし、アブラハム以上のことは、パウロは書いていません。それは何よりもアブラハムのことをパウロが重要視していたからなのだと思います。どのような過去があり、どのように生きていたのか少なくとも聖書には書かれていない一人の人であるアブラハムに神が語り掛けられたことによって信仰が始まっていくのです。そしてその信仰は、イサク、ヤコブと三代にわたって受け継がれ、やがて、イスラエル民族が信仰するようになって行ったのでした。聖書には、くり返し、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と書かれています。それは、ほかの神々ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブが信仰した神を神としたと言うことを意味します。私たちキリスト教徒もそのアブラハム、イサク、ヤコブが信じ、信仰した神を神としているのです。そして、その神はイエスが父と呼ばれた神なのです。

パウロが手紙を書き送ったローマは、当時広い地域を支配していた古代ローマ帝国の首都でした。国際都市でもありましたから、それこそローマの神々、ギリシャの神々を始めとする様々な神々が人々に信じられていました。そのような宗教的環境の中で、ローマのキリスト信徒は生活していたのでした。ローマのキリスト信徒の中には、ユダヤ教徒からキリスト信徒になった者もおり、また、ユダヤ教徒以外の人たちもローマのキリスト信徒として生活していたのでした。そのような状況をパウロは、これまでの伝道旅行の経験からよくわかっていたのだと思います。今の日本がそうであるように、当時のローマのキリスト信徒はほんの一握りの人たちでした。ローマの世間の人たちが信仰している神々でなく、キリスト信徒としてどのような神々を信じているのかをパウロは示したかったのだと思います。それは、アブラハムが信じ、イサクが信じ、ヤコブが信じ、そしてイエスが父と呼ばれた神です。

聖書の創世記にはアブラハムにまつわる物語が多く書かれていますが、その中でも重大なことの一つとして、アブラハムの信仰を受け継ぐ者、つまり子供のことがありました。神はアブラハムに信仰を受け継ぐ者を与えることを約束されたのでした。現実的な人間の思いでは、不可能だと思えること、アブラハムは年老いており、妻のサラも年老いており、不可能だと思えることを神は祝福と同時に約束されたのでした。そしてそのことをアブラハムは信じたのでした。私たち一人ひとりに神は何を約束されるのか、約束されているのか、神の声に耳を澄ませて聞いていきたいと思うのです。そして、その神の声が聞こえてきたのなら、たとえ現実的には不可能だと思えることであっても、アブラハムがそうであったように信じていきたいものです。

その一つが、戦争のない世界、世界平和の世界です。現実的には果てしもない不可能と思えることですが、約束を実現する力のある方に希望を持って信頼していきたいと思うのです。聖書の詩編から一か所お読みします。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」(詩編85 9節)

(柴田良和)


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神への賛美 [説教全文]

ローマの信徒への手紙420

 

彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。(新共同訳)

 

ユダヤ教を土台として、始まったのがキリスト教でした。2千年前にキリストの福音を伝道する伝道者として活動していたパウロは、キリスト信徒ではありましたが、ユダヤ教徒でした。ユダヤ教は、多くの新約聖書が書かれた紀元後60年代のヤムニア会議と言う会議で、経典を旧約聖書(ヘブライ語聖書)としてまとめました。ちなみにキリスト教が経典としてまとめた新約聖書は、2~3世紀の幾つかの教会会議においてまとめられ旧約聖書とあわせて教典、キリスト教の正典としたのでした。それゆえに正確にいえば、この頃からユダヤ教とキリスト教は分かれていったのでした。聖書には、言うまでもなく神に対する人の信仰的な物語が書かれています。神を信じる信仰の歴史がなければ聖書は生まれなかったでしょう。

では、信仰とは何でしょうか。もちろん神を信じることですが、神を信じる信仰とは何か。20世紀のある神学者は、信仰という言葉を説明する事柄として、認識、信頼、告白という言葉で言い表しました。認識とは、「物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。」と辞書には書かれています。つまり、神を認識するとは神を神として認めると言うことでしょう。要するに神を知ると言うことです。信頼とは、「信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。」と辞書には書かれています。神に信頼するとは、神を頼りにし、すべてのことをゆだね切ると言うことでしょう。告白とは、「秘密にしていたことや心の中で思っていたことを、ありのまま打ち明けること。また、その言葉。」と辞書には書かれています。つまり、知らされた神への信頼を公に言い表すことなのでしょう。そういった意味では私たちが毎週行っている礼拝は体で、神を告白していると言うことなのです。神への信仰の歴史、物語が旧約聖書、新約聖書には書かれています。その信仰の言葉をしり、私たちはこの現世での生活の糧としていくのです。

ユダヤ教徒に信仰の父として尊敬されていたアブラハムをどう思っているかをパウロはローマのキリスト信徒に説明を試みます。ローマのキリスト信徒も旧約聖書を読んでいましたし、ユダヤ教徒ならば口伝えでもアブラハムのことは聞いていたものと思われます。ローマのキリスト信徒の中には、ユダヤ教徒もいればユダヤ教徒以外の人たちつまり、ユダヤ教徒から異邦人と呼ばれていた人たちもいました。しかし、そんなことは関係なく、キリスト信徒であれば、旧約聖書を読んでいましたし、文字を読めない人たちも聞き伝えでアブラハムのことは知っていたでしょう。そのアブラハムのことをどう思っているかをパウロは手紙にしたためることによって自己紹介も兼ねて自分自身の信仰を語ります。

名もなき一人のへブル人であるアブラハム、このアブラハムは、過去にどのような事をした人であったのかは聖書には一切書かれていません。アブラハムが七十五歳のときに突然、神がアブラハムに語り掛け、祝福の約束と同時に旅をするように言われます。アブラハムは、神が言われるままに旅に出かけます。この旅は旅行と言うよりも引っ越しといって良いものだったのだと思います。その後、約束の地に移り住んだとき、アブラハムと妻であるサラとの間に子供が生まれました。アブラハムが百歳の時でした。アブラハムもサラも年老いていましたから、人間の思いでは、全く不可能だと思えることを神は成し遂げられたのです。アブラハムの子はイサクと名付けられました。そのイサクの子はヤコブです。ヤコブには十二人の子が生まれ、この十二人の子は、ヤコブがイスラエルと名前を改めましたが、イスラエルの十二部族の祖先となったのでした。アブラハムは、日本語に訳すと「多くのものの父」と訳せるようですが、その名のとおり、多くのもの父となったのでした。

一人の人、アブラハムに神が語りかけられ、アブラハムは神を認識した、つまり神を知ったのでした。そして、その神に信頼した人生をアブラハムは送ったのでした。そして、現世ではアブラハムの状況では不可能だと思える出来事、子供イサクが生まれその信仰を受け継いでいきまた次の世代が信仰を受け継いでいったのでした。不可能を可能とされる神により頼んで信頼を寄せるとき感謝の言葉があふれ、賛美の思いが告白としてあふれるのではないでしょうか。神を神として信頼し、賛美の思いが与えられるように祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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