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復活の姿 [説教全文]

ローマの信徒への手紙65

 

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(新共同訳) 

 

イースターおめでとうございます。イースター(復活祭)は、クリスマスと並んで、最近では世間に知られるようになってきましたが、それでもまだ、認知度が低いようです。それと言うのも、クリスマスは固定日であり、12月25日と定まっていますが、イースターは移動日なので、その年によって異なっています。イースターの日を知るのは、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日です。この日をイースターとするにあっては、最初期のキリスト教会では、教会会議などで色々と論争があったようですが、現在の日に落ち着いているようです。言うまでもなく、イースターは、イエス・キリストが復活されたということを記念してキリスト教会で行われる行事です。

イエスが復活されたと言うことが何故大きな意味を持つのかと言えば、イエスが十字架に架かり死なれたままであるというのではなく、甦られて今も、キリスト信仰者と共にいて下さっていると言うことを信じ、この世での労苦の多い人生で、やがて死んだとしてもよみがえらさられるという希望を持つことを信じることができるからです。

今日の個所でパウロは、「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる」と言っていますが、いつかはやがて死んでいく私たちではありますが、労苦の多い人生の歩みを一歩一歩とキリストと共に歩んでいく、つまりキリストの死の姿にあずかる、その信仰者の姿が、キリストの復活の姿とつながっていく希望となるからなと思います。

考えてみれば、人間であればだれでも起こることは、誕生、労苦、死亡です。どのように誕生し、どのように労苦し、どのように死亡するかは千差万別、人によって違いはありますが、誕生、労苦、死亡ということは誰にも例外なく人間であれば起こることです。わたしたちはいつの間にか、この時代に生まれ、この土地に生まれ、労苦の多い人生を歩んでいるわけです。ある人が、やがて死んでいくのに、何故、労苦して一生懸命今を生きなければならないのか、その先には死んでいくという厳然な事実があるのに、というようなことを言っていました。一生懸命に生きて行く、今を精一杯生きて行くその先に死が待っていくのに一生懸命に生きて行く、今を精一杯生きて行くのに何の意味があるのかというわけです。

キリスト教という宗教はハッピーエンドの宗教なのか、あるいはそうではないのかというようなことを考えて見られたことはあるでしょうか。最近、映画とかドラマなどをネット動画で観ることが多いのですが、勿論、ハッピーエンドで終わらない悲劇、例えば、マッチ売りの少女とかフランダースの犬などがありますが、様々な映画やドラマを観ていて、ハッピーエンドで終わってほしいと思うのが人情なのではないでしょうか。キリストが十字架に架かり、死なれたと言うことで終わるのであれば、悲劇の最たるものです。たぶんそこで終わりであったならキリスト教と言う宗教はこれほど世界中に広がらなかったのではないかと思います。

キリストは労苦の多い人生を歩まれました。そして最後には、古代ローマ帝国に反逆した犯罪人とされ、人々への見せしめの中、むごたらしい十字架刑に架かり、死なれました。確かにそのことだけで終われば、キリスト教は悲劇の宗教であると言うことになるでしょう。しかし、イエスが死なれた後、イエスと親しかった人の中から、一人、また一人とイエスがよみがえられたことを告白する人が現れたのです。キリスト信徒は、そのイエスの復活の出来事を受け止め、信じているがゆえに悲劇の宗教に終わらずハッピーエンドの宗教として信仰しているのではないでしょうか。

労苦の多い人生を私たちは生きています。そしてそれは信仰者にとって「キリストと一体になってその死の姿にあやかる」と言うことです。しかし、誕生、労苦、死亡のその先があるという希望、信仰者にとって、キリストの復活の姿にあやかるという希望を信じる信仰が与えられ続けていくことをこのイースターの日に思い起こしながら、祈りのうちに過ごしてまいりたいと思います。

(柴田良和)


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新しい命 [説教全文]

ローマの信徒への手紙64

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(新共同訳)

 

来週の日曜日は、教会暦では、復活祭(英語読みでイースター)です。このイースターまでの46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間を受難節と言いイエス・キリストの受難と死を覚え過ごす時期だとされています。そして、受難節の中でもイースターまでの一週間を受難週と言います。日曜日の今日から始まって、今週の土曜日の日暮れまでの期間です。教会では、この一週間を曜日ごとにイエスがエルサレムに行かれ、そこで起こった出来事を思い起こし、記念する日とされています。

一週間の最初の日である今日は、棕櫚の日と言われていて、イエスが人々に歓迎され、エルサレムに入られた日です。イエスはエルサレムに近づかれると二人の弟子に命じて、子ろばを調達するように言われました。「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。」(マルコによる福音書117節以下)。この人々が野原から葉の付いた枝を持ってきた植物が、棕櫚と言われる植物だと言われていて棕櫚の日と呼ばれるようになったと言うことです。

月曜日は、宮きよめと言われる出来事が起こったとされる日です。イエスは神殿の境内に入りそこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が祈りの家であることを宣言されたとされる日です。

水曜日は、イエスがベタニアのシモンの家で食事をしていたとき、マリヤがナルドの高価な香油をイエスの頭に注ぎかけイエスの埋葬の準備が行われたとする日です。

木曜日は、主の晩餐と言われる弟子たちと晩餐を共にされ日であり、この後、オリーブ山のゲッセマネと言う所で祈られ、弟子であるイスカリオテのユダの裏切りによって権力者たちの命令によって逮捕された日です。

金曜日は、受難日と言われる日です。古代ローマ帝国の残酷な十字架刑、これは、ローマに逆らう者への見せしめの意味もあったと言われています。イエスは鞭打たれ、人々から嘲られて、重い十字架を背負って歩かれ、そして十字架に掛けられたのでした。それはイエスにとって、孤独のうちに苦痛と絶望の時でありました。イエスは大声で叫ばれました。「

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マルコによる福音書1534節以下)と聖書には書かれています。

さて、パウロは言います。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」。パウロにとって、バプテスマ(洗礼)とは、イエスに起こった受難と死の出来事を自分のこととして受け入れると言うことではなかったのかと言うことです。バプテスマ(洗礼)を受けると言うことは、キリストの受難と死を思い起こしながら生きて行くという信仰の決断をすると言うことであり、私たち自らに起こって来る苦難の出来事の中にもキリストは共にいて下さっていると言うことなのだと思います。孤独と苦難、絶望の中にあったとしてもそこにキリストは共にいて下さり、新しい命へと生まれる希望をこの受難週の初めの日に思い起こしながら過ごしてまいりたいと思います。

聖書を一か所お読みします。「弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書1629節以下)。

(柴田良和)


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バプテスマ [説教全文]

ローマの信徒への手紙63

 

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。(新共同訳)

 

伝統的な教会での教会暦では、この時期は受難節、四旬節(英語読みではレント、教派によっては、大斎節(だいさいせつ)という。)です。復活祭(日曜日:英語読みでイースター)の46日前の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間を言います。今年は、2月の14日の水曜日から3月の30日までの期間となっています。イエス・キリストの受難と死を覚え過ごす時期だとされています。受難節(四旬節)では伝統的に食事の節制と祝いごとの自粛が行われてきました。現在も神に対しての祈り、自分自身に対しての節制、さらに他人に対する慈善の3つが受難節(四旬節)の精神として教えられており、娯楽の自粛や慈善活動への積極的な参加を行うキリスト信徒もおられます。古代末期から中世にかけて受難節(四旬節)中には厳格な断食をなすという習慣が確立され、肉はもちろん卵、乳製品の摂取が禁じられて、一日一度しか十分な食事を摂ることができないとされていたようです。そのようにして、古代以来、キリスト教徒たちはイエス・キリストの受難と死の苦しみに少しでもあずかろうとしてきたということのようです。キリスト教徒である現代の私たちもイエス・キリストの受難と死を覚え祈る時を持ちたいと思います。

さて、今日の聖書の個所で、パウロは洗礼のことに関して語っています。日本語に訳すと洗礼と訳されるのが伝統的になっていますが、もともとのギリシア語はバプテスマという言葉が使われています。このバプテスマという言葉の動詞であるバプテゾウという言葉は、「浸す」という意味の言葉です。なんでも漬物を浸すときなどにもこのバプテゾウという言葉が使われると神学部の先生が言っていたとかいないとか。

わたしたちの教会は、バプテスト連盟というバプテスト派という教派に属している教会ですが、このバプテストと言うのはバプテスマという言葉から来ています。バプテスト派とは、辞書によると「プロテスタント・キリスト教の最大教派の一つ。 幼児洗礼を認めず、自覚的信仰に基づく浸礼を主張してバプティストと称する。 信仰と生活の唯一の権威としての聖書、信仰者の洗礼、集められた信仰者の教会、信仰者の祭司性、各個教会の自治、教会と国家の分離などの特色ある主張にたつ。」と説明されています。

16世紀に宗教改革が起こり、それまで教職者しか読んでいなかったラテン語の聖書を宗教改革者ルターが、この人はドイツ人ですが、母国語のドイツ語に聖書を原典のギリシア語から訳し、文字の読める人なら誰でもその内容が分かるようにしたのでした。同じころ活版印刷が発明され、教職者だけでなく一般庶民も聖書が読めるようになり、誰もが直接聖書が読めるようになったのでした。この頃、聖書が読めるようになった一般の人たちが、それまで伝統的に形式化されていた信仰生活から離れ、直接聖書から学び、自分たちの信仰生活を守ろうとした人たちが、バプテスト派の人たちです。

イエスがこの世で活動された時期と同じ時期に洗礼者ヨハネと言う人が、イスラエルのヨルダン川に現れ、民衆に洗礼(バプテスマ)を授けていたという記事が、聖書に書かれています。イエスもこの洗礼者(バプテスマの)ヨハネからバプテスマを受けられたということです。バプテスマのヨハネの活動は、神への悔い改めを示すバプテスマでした。しかし、パウロは新しい意味付けをしたのでした。それはすなわち、イエス・キリストの死と復活にバプテスマを受けることによって与かるというものです。

バプテスマ(洗礼)は、今日の個所でパウロも言っているようにキリストに結ばれるために受けるものですが、それは、言葉だけでなく身体でキリストへの信仰告白を言い表す行為としてキリスト教会がその歴史の中で引き継いできたものです。個人的には、バプテスマを受けたその人が、その時、聖霊の導きによってイエス・キリストを告白する信仰生活に入っていくと言うことを意味します。いわば、いつも、その人個人の信仰生活の原点に立ち返っていくと言うことです。わたしも四十数年前にバプテスマ(洗礼)を受けましたが、今回この説教を準備する時に、あの時の思いを思い起こし、忘れないようにしなければと改めて思いました。イエス・キリストの受難と死を思い起こし、キリストに結ばれていることを思い起こしながらこの教会暦で言われているところの受難節の時を過ごしてまいりたいと思います。

(柴田良和)


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決してそうではない [説教全文]

ローマの信徒への手紙612

 

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。(新共同訳)

 

パウロは、復活の主イエスに出会ってからその半生をキリストの福音を伝えるために生きた人でした、具体的に言えば、大きな伝道旅行を三回行い、その伝道旅行は何か月何年にもわたって行われたものでした。その伝道旅行の途中で、当時地中海世界を支配していた古代ローマ帝国の首都であるローマにキリスト信徒がいることを聞き及んだのでした。ローマはギリシア文化の世界の都市でしたから、パウロがローマのキリスト信徒に書き送ったローマの信徒への手紙もギリシア語で書かれたものでした。幸いにも紀元前に旧約聖書がギリシア語に翻訳されていた(七十人訳:セプチュアギンタ)ので、パウロは旧約聖書の物語を語るのに抵抗なく語ることができたのだと思います。パウロが活動していた時には、聖書と言えば旧約聖書のことです。新約聖書が聖書にキリスト信徒によって正式な聖書、正典と呼ばれるようになったのは、パウロの時代のずっと後からになってからでした。

ともかく、ローマのキリスト信徒は旧約聖書の物語を読んでいたと思われますし、ローマのキリスト信徒の中には、ユダヤ教徒以外の人たち、いわゆる異邦人と呼ばれていた人たちもいましたが、ユダヤ教徒のキリスト信徒もいましたから、旧約聖書の物語はローマのキリスト信徒もよく知っていたものと思われます。ローマのキリスト信徒とパウロは未だ顔と顔を合わせて会ったことのない同士だったので、パウロは自己紹介を兼ねて手紙を書き送ったのでした。その際、パウロが目指したのは、ローマのキリスト信徒の人たちとパウロ自らの信仰を語り合うことによって、お互いが励まし合うようにとの思いがあったからでした。そこでパウロは、自身と共通に持っている旧約聖書の物語を語ることによって、ローマのキリスト信徒の人たちに自らの信仰を語ろうとしました。そこで、旧約聖書の中でも基本中の基本であるユダヤ教徒から信仰の父と夜ばれていたアブラハムの物語、そして、最初の人であると物語られているアダムの物語をどう思っているかを語ることによってパウロは自己紹介をします。

パウロのローマ信徒への手紙を書くまでの伝道旅行でキリストの福音を宣べ伝えるのに戦わざるを得なかったのはいわゆる律法主義者と言われる人たちとの戦いでした。律法主義者と言われる人たちの基本的な考え方は、律法を守ることによって正しいものとされるという考え方です。律法を守ることによって自分自身の力によって、もっと言えば自分の力に頼って正しいものとされるという考え方です。これを少し難しい言葉で言えば行為義認と言います。この考え方に対してパウロは、アブラハムの信仰を例にとって、アブラハムは律法を守ることによって、すなわち自分の力で正しいものとされたというのではなく、ただ信仰によって正しいものとされたと語ります。つまり、神に信頼しただ神により頼んで生きる生き方をアブラハムが模範として示したのだと語ります。この事を神学的な言葉で言えば、信仰義認と言われています。

ユダヤ教に従えば、律法違反が罪であり、律法の個々の規定を守らないことが罪だとされます。しかし、パウロはもっと罪の根元をアダムの物語を解釈することによって語ります。律法の個々の規定を守らないことでは差し当たっては、問題ではなく、人間の根源的に持っている神への不従順、神への逆らいをパウロは罪と考えていたのだと思います。そこには律法の個々の規定を自分の力で守るという自分の力に頼ると言うことから、自己完結すると言うことから、自分の力に頼ること言うことができないでいる自らの現実を知り、神に頼る生き方、神により頼む生き方、そのような生き方がキリストによって示され、神への従順の道がキリストによって示されたことをパウロは言いたかったのだと思います。

神に逆らうという根源的に人間が持っている思い、神に不従順に生きようとする思いが、人間の現実に横たわっていることをパウロは良く知っていたのだと思います。しかし、そこにとどまったままでいることもパウロにとっては認められないことでした。そのことをよく知っていたがゆえにキリストはパウロにとっては救いであり、福音であったのだと思います。

キリストによって神への逆らい、神への不従順から解放されるそのことを信じ、キリストに従うものとなって生き続けることができるように、私たちもまた祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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永遠の命に導く [説教全文]

ローマの信徒への手紙521

 

こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(新共同訳)

 

一昔、二昔前のある小説家が、聖書を熱心に読んでいるのを見た友人が、「君はまだ聖書を読んでいるのかい」と尋ねました。するとその小説家は、「そうだね、聖書は面白いよ、人間のあらゆる問題が書かれているからね」と言ったそうです。

聖書には、人間の都合のいいことばかりが書かれているわけではありません。むしろ、人間の失敗や悲惨な状況が、くり返し書かれています。戦争や飢餓、災害といった状況の中で、人間がどのように生きて行ったのかが、その歴史的な記述の中で書かれています。勿論、聖書は現代で言うところの歴史書ではありませんし、科学の問題が書かれている書物ではありません。神話や詩歌と言った表現方式で物語が綴られています。その時々の人々が、現実の生活、社会を生きて行く中で、神への信仰を言葉にした信仰の告白が書かれている書物だと思います。

人間はある意味で悲惨な現実の中で生きています。それは、科学が進歩している現代の世界でも同じです。災害が起こり、戦争が起こり、社会の中で弱くされている人々、小さくされえいる人々が犠牲となっています。そのような人間の現実に対して神はどのように思っておられるのでしょうか。

小説家の遠藤周作さんの作品に「沈黙」という小説があります。初めて日本にキリスト教が伝えられた時代を背景として書かれた小説です。日本の時の権力者たちが、キリスト教を迫害する中で、宣教師を中心として苦難の伝道活動の中で、神の沈黙と言うテーマで書かれている小説です。現代の悲惨な人間の現実の対してもなお神は沈黙されているのか、と思わされます。

しかし、そのような中にあっても世界中に立っている十字架の下にいまだなお人々は集っているのです。歴史の中でキリスト教会の歩みも決して正しい歩みばかりだとは言えないものがありました。時には右往左往しながら、時には同じ信仰者同士が争い殺害し合うという悲惨な歴史がありました。しかし、にもかかわらずキリスト教会の十字架は、数えきれないくらい立っており、名も知らぬ信仰者の祈りがささげられているのです。

聖書を読んでいくとどのような人間の悲惨な状況も驚くことではないのだと思います。私たちの悲惨な状況は、聖書の中に書かれており、その時人々はどのように神を求め、神の名を呼んだのかが書かれています。

誰か一人に起こることは、人間である限り、すべての人に起こることだと思います。神への不従順に陥った神話的に書かれている最初の人であるアダムに起こったことは誰にでも起こることです。アダムの神への不従順によって死が世に入り込んできました。死は圧倒的な支配力で私たち人間に襲いかかってくるように思います。死を免れる人はこの世には誰もいないのです。

しかし、そのような人間の現実に対して神は沈黙を通されたわけではありませんでした。主イエス・キリストを通して、人間に死を乗り越える道を備えて下さったのだと思います。主イエス・キリストという一人の人、一人の方を通して死に打ち勝つ道を示されたのだと思います。

今もなお、苦しみの現実、苦難の現実はわたしたちの人生の中の歩みの中で続いていますが、神の恵みによって、主イエス・キリストを通して永遠の命へと導いてくださっていることを信じることができますように祈ってまいりたいと思います。

(柴田良和)


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