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誇りとする [説教全文]

ローマの信徒への手紙511

 

それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(新共同訳)

 

月日の流れは速いもので、今年も最後の日となりました。皆さんにとっては、2023年はどのような年を過ごされた年であったのでしょうか。礼拝では、ローマの信徒への手紙を読み進んでまいりましたが、来年も引き続きローマの信徒への手紙を読み進んでいきたいと思っています。キリスト教の最初期の伝道者であったパウロが、どのような人生を歩み、何を人々に伝えようとしたのか、そのようなことを聖書の中から読み取って行ければと思います。

パウロはその半生を伝道旅行に費やした人でした。当時の古代ローマ帝国が支配する地中海世界を旅行し、キリストの福音を宣べ伝えようとした人でした。何か月、何年にもわたる大きな伝道旅行をし、地中海世界の町々を巡り歩きキリストの福音を語り伝えた人でした。幸いにも、そのようなパウロの活動の状況が、パウロの手紙として新約聖書の中に残されており、私たちはパウロが何を思い、何を人々に伝えようとしたのかを伺い知ることができます。

そのようなパウロの手紙の中でもローマの信徒への手紙は、他の手紙とは、違うところがあります。それは、他の手紙はパウロが一度は訪れた町々の人々に書かれた手紙であるのに対して、まだ、一度も訪れたことのない町、すなわち、古代ローマ帝国の首都であるローマの町にいるキリスト信徒に向けて書かれた手紙であると言うことです。パウロは、伝道旅行の途中で、ローマにキリスト信徒がいることを知り、自己紹介を兼ねて様々な事を手紙の中にしたためています。

パウロが、ユダヤ教徒であったように当時のキリスト信徒もユダヤ教の伝統の中で生きていました。それゆえ、キリスト信徒の信じる神は、ユダヤ教徒の信じる神であったことは言うまでもありません。その同じ神が、キリストを通してどのような神であるのかをパウロは、ローマのキリスト信徒に語ろうとしているのが、ローマの信徒への手紙です。その神とは、イエス・キリストが父と呼ばれた、生きて働かれている神です。その神とは、人間と同じように、喜ばれる方であり、怒られる方であり、哀しまれる方です。

今、世界で起こっている戦争や紛争を神はどのように思っておられるのでしょうか。きっと神は争いが絶えない人間の現実に対して、哀しい思いをされているのではないでしょうか。その神が哀しい思いをされる人間の現実に対してキリストの十字架が立っているのだと思います。人間のあらゆる悲惨な現実は、キリストの十字架によって顕されてのだと思います。私たち人間が、キリストの十字架を、その意味を見失わない限り、人間の悲惨な現実に対して希望が見失われないのです。キリストの十字架は、人間が無益な争いをやめるようにと今日も立ちつづけています。

今年の一年を振り返りながら、来年に向けて私たちの祈りが、さらに神への信頼に向けて祈り続けていくことができるように願ってまいりたいと思います。キリストは、昨日も今日も、そして新しい年が始まる明日も私たちと共にいて下さり、救いへの道へと導いてくださっていることを信じて、明日から始まる新しい年を迎えたいと思います。

聖書をお読みします。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマの信徒への手紙822節以下)。

(柴田良和)

 


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言は肉となった [説教全文]

ヨハネによる福音書114

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(新共同訳)

 

クリスマス・イブというのは、日本語に訳するとクリスマスの夜と言うことになります。クリスマスは12月25日がクリスマスですから、日本では、なんとなくクリスマスの前日がクリスマス・イブのように思われていますが、正確に言うとクリスマスの前日の夜がクリスマス・イブです。ユダヤでは、日の入りから、16時、日の入りまでが一日となっています。ですからクリスマスの夜は24日の夜と言うことになります。

クリスマス・イブといえばサンタクロースを思い浮かべる人が多いでしょう。サンタクロースは、セント・ニコラウス、聖ニコラウスがなまって、サンタクロースと言われるようになったものです。聖ニコラウスは実際にいた人物で、その聖ニコラウスという人が伝説の人物になったのがサンタクロースです。サンタクロースと言えば、クリスマス・イブにプレゼントを送ってくれる伝説の人物として有名です。

SF作家の星新一が、「ある夜の物語」という小説で、サンタクロースにまつわる物語を書いています。クリスマス・イブのこと。ある青年がいました。この青年は会社務めをしていましたが、うだつが上がらず、友人も恋人もいない寂しい孤独なクリスマスの夜を過ごしていました。ふと気づくと、伝説とそっくりなサンタクロースが目の前に立っていました。そして、願い事を何か一つかなえてあげようと言いました。はじめは、青年は、信じませんでしたが、その内に信じるようになり、そうならばと、会社での出世や恋人や友人ができることが、頭に浮かべましたが、ふと思い至ることがありました。

青年はサンタクロースに言いました。「ぼくがいま、なぜこんな気まぐれを思いついたのか分からないし、ばかげたことだとも気づいています。しかし、あなたの贈り物を受ける権利が、僕にあるかどうか。それが気になってきました。権利というより資格といったほうがいい。ぼくよりも、もっと気の毒なひとがいるはずだ。そっちへ行ってあげたほうがいいん

じゃないでしょうか。たとえば、このもう少し先に、なおりにくい病気で寝たきりの女の子がいる。あまりいい暮らしてもないそうです。そこへあなたが出現したら、どんなに喜ぶか分からない。ここでぼくが品物をもらったりすると、あとに反省や後悔が残りそうです。ぼくから回されたことは黙って、その女の子のところへ行ってあげてください」

「では、そうしましょう。あなたの言うとおりにしましょう」

サンタクロースは、女の子のところに行きました。女の子もはじめは驚いていましたが、その内に信じ、病気が治ることや友達ができることを考えましたが、ふと、なぜ自分のところに来たのかをサンタクロースに尋ねると自分のことを思ってくれている人がいることを知り、自分が見捨てられていないことを知り、嬉しくなりました。女の子もまた気になっている人がいました。それは、あまり評判のよくない孤独な金貸しの人でした。女の子もプレゼントを辞退し、金貸しのおじさんのところへ行くように願います。

金貸しのおじさんのところでも同じことが起こり、今度は暗黒街のボスのところに行きましたが、暗黒街のボスも同じことが起こり、そこで、時間切れとなり来年クリスマスまで、プレゼントは、持ち越しとなりました。家に帰ったサンタクロースは、もしかしたら、きょう最も楽しさを味わったのは自分ではないかと思った。

クリスマスは、神さまから誰一人もれなく、最高のプレゼントをわたしたちに贈って下さった事を思い起こし、思いめぐらす日です。その最高のプレゼントとは、主イエス・キリストです。

今日の個所をもう一度お読みいたします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

(柴田良和)


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和解させていただいた [説教全文]

ローマの信徒への手紙510

 

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙を書いたパウロが、新約聖書に登場するのは、青年の頃です。主に使徒言行録にパウロの活動の消息が書かれています。パウロが青年の頃と言っても三十歳頃のことだと言われています。使徒言行録にパウロが登場するのは、エルサレムでキリスト信徒が迫害されていたころのことです。キリスト信者であったステファノがリンチで殺害され、それに賛成していたのがパウロでした。使徒言行録は、キリストの福音伝道活動を共にしていたルカによって書かれたものです。ルカによる福音書の作者でもあります。ルカはパウロと親交を持っていましたから、共に伝道活動をするまでのことは、パウロに関しては直接聞いて知っていたものと思われます。律法の偉い学者から律法を学んでいたパウロは、熱心な律法主義者でした。それゆえ、律法に関して無頓着だと思われていたキリスト信者を迫害することに加担していたのでした。パウロは、エルサレムでの迫害を逃れてイスラエル中に逃げていったキリスト信者を逮捕するために追いかけていました。しかし、その途中で、幻のうちに復活のイエスに出会い回心したのでした。

パウロが何を回心したのか。その一つは、律法に対する考え方だったのだと思います。本来律法は、人間が幸せに生きるために、人が大切にされるために神によって授けられたもののはずでした。しかし、その律法が人を支配する道具として、権力者たちに利用されていました。パウロは、律法そのものを否定しているわけではありませんでした。それどころか人間をキリストの信仰へと導く養育係だとパウロは言います。「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(ガラテヤの信徒への手紙321節以下)。

人が人として、大切にされるために律法があるのであって人を支配する道具に決してなってはならないものです。安息日という人が休まなければならないという規定が律法にはありますが、その安息日に関してイエスは言われます。「・・・「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」」(マルコによる福音書227節以下)

現代の私たちにも法や法律を持っていますが、その法や法律が本当に人を人として大切にするためのものであるのかを見極めなければならないと思います。日本は民主主義の社会ですから、法や法律を決めていくのは私たちに任せられているのです。

さて、今日の個所で、和解という言葉が書かれていますが、この和解という言葉は、法律用語です。和解という言葉は、辞書によると次のように説明されています。「 争いをやめて仲直りすること。・・・② 心がなごやかになること。・・・③ 民事上の紛争について、当事者が、互いに譲歩して争いをやめる契約。・・・④ キリスト教で、神の恩恵として、人間に与えられるもの。・・・」(精選版 日本国語大辞典より)

キリストによって、人間が敵対していた神との仲直りによって人が人として大切にされ、共に生きるという契約を結ぶのです。人が神の座に座るのではなく、神によって生かされている人間として生きるという約束に生きると言うことです。キリストによって、人が人として大切にされていくという約束の中で生きることが実現したのです。そのキリストの誕生を待ち望むこの待降節の時期、わたしたちも毎日の生活の中で、神によって大切に思われている自分自身を振り返る時期としたいものです。

(柴田良和)


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神の怒りから救われる [説教全文]

ローマの信徒への手紙59

 

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、ユダヤ人でした。ユダヤ人であるユダヤ教徒は、エルサレム神殿で、犠牲のささげものを行っていました。牛や羊といった動物を犠牲のささげものとして神にささげていたのでした。それは、人間が犯した神との契約違反、すなわち罪を犯した罰の身代わりとして動物犠牲が行われていたのでした。生き物の血を流すと言うことは命を奪うと言うことです。そして命を持つと言うことは肉体を持っていると言うことです。

ローマの信徒への手紙を書いたパウロは、自己紹介を兼ねて長い手紙を書きました、そして、同じキリスト信徒としてキリストがどのような方であるのかを丁寧に説明しています。キリストは人間の肉体を持ってこの世に生まれた方です。肉体を持っていると言うことはこの世での具体的な関りがあると言うことです。そして、共に飲み食いし、生活し、人間の悲しみや苦しみに寄り添って生きると言うことです。新約聖書には、イエスがどのように生きられたのかを端的に書かれている箇所があります。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」(マタイによる福音書423節以下)。

しかし、イエスがされたこのような活動は、当時の権力者たちにとっては都合の悪いことでした。権力者たちにとって民衆が、イエスがされている活動を喜び、イエスに従うと言うことは、自分たちの民衆を支配しようとすることを脅かされると思ったからでした。イエスがされていた活動の視線は、いつもこの世で弱くされた者、小さくされた者、差別されていたものに注がれ、共に生きようとされることにありました。しかし、共に生きることのできないのもまた人間の悲しい現実であることを私たちは、現在いやというほど思い知っているのではないでしょうか。自分たちの領地を広げるために無意味に血を流す現実、女性や子供、老人が無意味に血を流している現実。なぜ、人は、共に生きることができないのか。日本でも難民として逃れてきている人たちにひどい仕打ちをしているという現実があります。そのような現実によって今もキリストは血を流し続けておられるのではないでしょうか。

神は喜怒哀楽を持っている方です。それは、人間が生きていることを喜び、人間の不正義に対して怒り、人間の罪を哀しんでおられると言うことです。旧約聖書、新約聖書を読めば、神がそのような喜怒哀楽を持って人間の現実に関わっておられる方だと言うことが、よくわかります。

キリストが誕生されたということを思い起こし、そのことを記念するクリスマスを待ち望んでいるこの時期に、キリストが肉体を持ってこの世に来られた、誕生されたと言うことの意味を思いめぐらす時期としたいと思います。キリストはわたしたちと同じ肉体を持って誕生されたがゆえに血を流すほどにこの世を大切に思い、人が人であるというそれだけで、一人も例外なく大切に思われていることそのことを信じたいと思います。人が人と共に生きることの困難な悲しい現実にキリストが今も血を流し続けておられると言うこと、そのことを忘れないで生きて行くことを私たちには求められているのではないでしょうか。

聖書をお読みします。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカによる福音書124節以下)。

(柴田良和)


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神が示された [説教全文]

ローマの信徒への手紙578

 

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(新共同訳)

 

イエスは古代ローマ帝国の残酷な刑罰である十字架に架けられ殺害されました。イエスと共に生活し生きた弟子たち、仲間たちは失意の中でイエスが殺害された意味を繰り返し思い巡らしたのだと思います。イエスを殺害したことによってエルサレムの権力者たちは自分たちの立場を脅かすことはなくなったと思っていました。しかし、イエスの弟子たち、仲間たちは、一人また一人とイエスが復活されたことを証言し始めたのでした。エルサレムで、一つ所に集まり祈り、集会を持っていたイエスの弟子たちのところに一人また一人と集まり、仲間が増えていきました。そのような状況に対して危機感をもったエルサレムの権力者たちは、イエスの弟子たち仲間たちを迫害し始めました。

そんな中、イエスの弟子たちの仲間に加わって、イエスの復活の福音を伝え活躍していたステファノという人が、迫害の犠牲となったことが、使徒言行録に詳しく書かれています。ステファノは、捕らえられ、エルサレムの権力者たちが牛耳っている最高法院という裁判所のようなところに連れていかれ、偽証人によって次のように訴えられました。「・・・「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」」(使徒言行録613節以下)。この訴えに対してステファノは、イスラエルの歴史を紐解いて長い弁明をしますが、その弁明を聞き終わったエルサレムの権力者たちは、ステファノをリンチにかけ、ステファノめがけて石を投げ殺害したのでした。

この時、パウロはどうしていたのかと言うと使徒言行録に次のような報告が書かれています。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」(使徒言行録81節以下)。サウロと言うのは、パウロのアラム語名です。

律法主義者であったパウロは理解していなかったのだと思います。律法は人を生かすために神から与えられたものであると言うことを。そして、権力者たちが律法の規定を利用して、人々を支配するため自分たちの都合の良い道具にしていたことを。パウロは、エルサレムにいたイエスの仲間たちを迫害するだけでは飽き足らず、エルサレムから迫害を逃れていったイエスの仲間たちを捕えるためイスラエル中を追いかけていたのでした。しかし、その途中で、幻のうちに復活のイエスと出会い回心したのでした。この復活のイエスとの出会いが、パウロの生き方を百八十度変えたのだと思います。それまで、律法違反を犯した罪人として追いかけ回していたイエスの弟子たち、仲間たちが罪人ではなく、パウロ自身が、人を人とも思わず、人を大切にすることに反していた罪人であったことを思い知ったのだろうと思います。

聖書をお読みします。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」(マタイによる福音書99節以下)。

(柴田良和)


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