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尋ね求め [説教全文]

コヘレトの言葉315

 

今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。(新共同訳)

 

今日でコヘレトの言葉は終わり、来週からはローマの信徒への手紙を読み進んでいきたいと思います。なぜコヘレトの言葉をしばらくの間、聖書の個所に選ばせていただいたかと言うと人生と言うものを振り返りながら、今まで歩んできた歩みの中で、神の導きと守りがあったことを確認したいと思ったからです。

コヘレトの言葉は、聖書の中でも異色の文書であると言われていますが、キリスト教では旧約聖書ですが、ユダヤ教の教典であるヘブル語聖書、律法、歴史、諸書と分類されている中で、諸書に含まれる文書です。諸書には多くの文学書が含まれ、諸書の中では詩編が代表格ですが、コヘレトの言葉は知恵文学と呼ばれ、箴言などのように人生訓が記されています。

思えば、そこに神の計画と言ったものがあったのだと信じたいですが、人間的に言えば、たまたま、いつの間にかこの時代に生まれ、この国や土地で育ち、いつの頃からか自分とは何だろうなどと考えはじめ、様々な人たちや自然と出会い今の自分がいるのです。

不思議と言えば不思議です。何のために自分は生まれてきたのだろう、自分の人生にはどのような意味があるのだろう、そのような問いを持ちつづけながら一生を終わるのかも知れません。

コヘレトの言葉の書き始めは、伝道の書と言われていた口語訳では、「伝道者は言う、/空の空、空の空、いっさいは空である。」(伝道の書12節)と書かれています。新共同訳での「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレトの言葉12節)という書きはじめよりも「空の空、空の空、いっさいは空である。」という口語訳の方が何だか宗教的雰囲気がしていていいと思うのですが。実際、仏教では、有名なところでは、般若心経と言う経典に「空」という思想が書かれているようです。一度か二度、現代訳を読んだことがありますが、勿論、もっと深い意味があるのでしょうが、私流に解釈してみると「日々悩み、苦しみ、右往左往しているあなたは本当に居るの、存在しているの」と言う問いかけのような気がして何だか心が軽くなった気がしました。

コヘレトの言葉の作者は、今の学問ではほとんど支持されませんが、伝統的には最初のイスラエル統一王国を樹立したダビデ王の子であるソロモンだと言うことになっています。ソロモンは王ですから最高権力者であり、何でも思い通りにすることができます。ソロモンは、大きな宮殿を造り、多くの金や銀の宝を持ち、果樹園を造り、多くの奴隷もち、牛や羊の家畜を多く持ち、私なんかは、妻は一人でもう十分だと思うのですが、ソロモンは多くの妻、側女を置いていたのでした。毎日歌え、踊れの宴会も開いたことでしょう。多くの財産を手に入れ、おおくの事業を起こしたのがソロモンでした。そのようなソロモンでありながらなぜ「空しい、空しい」と繰り返すのでしょうか。

一つ想像できるのは、人生、現世での人生には、人間として生きている限り、限りがあると言うことをソロモンは知っていたからではないかと思うのです。時間は出来事で繋がっているとの理解があります。様々な時があることを三章の初めにコヘレトは語った後、今回、このシリーズでの説教の個所をお読みしたいと思います。「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既(コヘレトの言葉39節以下)

あの人やこの人と過ごした一瞬一瞬、自分が生きたという一瞬一瞬は、なくなることはありません。たとえだれがみていなくとも誰にも知られていなくても、神は私たちの一瞬一瞬をお忘れになることはなく、むしろ価値がなく追いやられたとされるもの、しかし、自分にとっては意味があるその一瞬を神は尋ね求められるのです。

何の意味もない人生などありません。たとえ生きている間に自分の人生に意味などないと思えても神は尋ね求め意味があることを教えて下さる時があることを信じたいと思います。

(柴田良和)


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神の業 [説教全文]

コヘレトの言葉314

 

わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。(新共同訳)

 

詩を一つ読みたいと思います。「あしあと」という題の詩です。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね

した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお

いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、

あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」」

マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性の作った詩だそうですが、ご存知の方もおられると思います。鳥栖教会の野中宏樹牧師が、もう30年以上前でしょうか、この詩をもとにして作曲され新生讃美歌の570番「たとえばわたしが」になっています。

「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレトの言葉12節)と言う言葉でコヘレトの言葉は書き始めています。この「空しい」と言う言葉は、口語訳では「空」と言う言葉になっています。「伝道者は言う、/空の空、空の空、いっさいは空である。」(口語訳:伝道の書12節)。この「空」と言う言葉は、もともとは仏教用語だそうで、仏教用語の基本的な言葉だそうです。諸行無常という言葉に通じるものがあり、諸行無常の意味は、「世のすべてのものは、移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはないということ。 人生は、はかなく虚むなしいものであるということ。 仏教の根本的な思想」だそうです。ちなみに「空」という言葉は、仏教哲学的な難しいことは分かりませんが「あらゆるものには実体がないという考え方。」だそうです。

この「空」と口語訳で訳されていた言葉を、新共同訳では「空しい」と訳しなおしたのでした。すべてのものははかなく、むなしいとコヘレトの言葉のコヘレトは繰り返して語りますが、それだけでは終わりません。

先週の説教で、一瞬、一瞬の命が、神に信頼をおくとき永遠の命へとつながっているとお話しさせていただきました。先週の個所は、「人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」(コヘレトの言葉313節)と言う言葉です。この言葉は、イエスが言われた言葉に通じるものがあるのだと思います。イエスは言われます。「「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」」(マタイによる福音書625節以下)

コヘレトの言葉は、旧約聖書の箴言などと同じように知恵文学、知恵の書と呼ばれています。何に対する知恵なのかと言うと人が生きている人生での知恵です。「空しい、空しい」と人生のむなしさを抱いている人たちに寄り添い「空しい」と語ります。しかし、それだけでは終わりません。それが今日の個所「わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」と言う言葉です。

空しい人生だと嘆いている人に、しかし変わらす傍にいて伴っていてくださるのが神である、神は不変であり、どのようなときにも伴っていてくださっているそれが、「永遠に不変である」と言うことなのだと思います。

コヘレトの言葉は、信仰に基づく人生訓ですから、勿論、年配の方にも通じることですが、若い人に語り掛けていると言うことが分かります。

コヘレトの言葉の締めの言葉をお読みします。「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」(コヘレトの言葉1212節以下)

(柴田良和)


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神の賜物 [説教全文]

コヘレトの言葉313

 

人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。(新共同訳)

 

私の母方の祖母は、百歳近くまで生きた人です。大正生まれですから、戦争を体験しています。戦争体験も何度か話してくれたのですが、詳しくは覚えていません。印象的だったのは、苦労して買い出しに行ったこととか、戦闘機に追いかけられたこともあったようです。体は丈夫だったので、子供の頃は、マラソンの選手でした。それゆえ、晩年も正月になると箱根駅伝をかかさず観ていました。なくなる直前まで病気と言う病気はしたことがなく最後まで生きると言うことを楽しんでいた人でした。四十歳の頃に連れ合いをなくし、後には五人の子供が残されました。一番上の長女である母が、高校生の時でした。母も働いて弟や妹の面倒を見なければならなかったのですが、祖母も五人の子供を育て上げました。今は、親戚とほとんど交流がないのでわかりませんが、孫やひ孫がたくさんいます。そのような祖母の人生でしたが、今は空しく過ぎ去っています。

コヘレトの言葉の著者は、繰り返し、空しい、空しいと言います。どれほど大事業をしようが、どれほど財産を蓄えようが、空しく過ぎ去っていくと言うことを私たちは心のどこかで知っているのではないでしょうか。「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレトの言葉12節)

まだ、教会に通う前のこと、このコヘレトの言葉に不思議と慰められました。わたしにも青年時代があったわけですが、夢と希望、絶望と挫折、を繰り返す中で、空しい、空しいと思っていた私がいました。そのような私の心に共感してくれる言葉が、コヘレトの言葉でした。もしかしたら聖書の中には、包み隠さず本当のことが書かれてあり、何か人生にとって意味があることが隠されているのかも知れないと思ったのでした。人生は空しいと思い悩んでいる私と同じ悩みを悩んでいた人がいたのだという発見でした。それからは、まだ宗教に関しては反発心がありましたから、ひそかな求道ともいうべき歩みが始まったのでした。

やがて、一人の人のことが心に思い浮かぶようになりました。言うまでもなくキリスト教徒が、キリストと呼んでいるイエスのことです。それまでも昔、十字架の上の苦しみの中で人々の幸せを願った人がいたと言うことは聞いていました。しかし、私の心には響いてきませんでした。私の中では、いまだ、十字架刑で殺害され空しく死なれた一人の人でした。やがて、福音書を読み始めました。当時は、ギデオン協会で配布されている、英語との対訳の新約聖書口語訳です。そこにはいつもイエスの周りには人生での悩みに疲れ果てて空しくされている人たちのことが書かれています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」(マタイによる福音書423節以下)

半信半疑ながらも福音書を何度も読み返していたのを覚えています。そしてある日、突然、聖書の言葉が響いてきました。マタイによる福音書にある山上の説教の「幸いなるかな」の言葉です。空しい、空しいと悩み悲しんでいた心にイエスは言われます。「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書54節)

イエスと言う方は、ただ十字架に架かり苦しまれたというだけの方でなく、その生涯の中で小さくされている人たち、虐げられていた人たちと時には愉快に人生を楽しまれた方だったのではないかと最近思わされています。このように書かれています。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」」(マタイによる福音書1119節)今のひと時、この一瞬の命が、神の賜物として永遠の命へとつながっているのだと思います。

めったに読み返すことはないのですが、この教会に就任させていただいたときに書いた「イエス・キリスト」の個所のわたしの信仰告白を読ませていただきます。「イエス・キリスト  主イエス・キリストを信じます。主イエスは、すべての人の救い主であると信じます。主イエスは、歴史に中でこの世界の中に人として生まれ、神の国を告げ知らせ、ちいさくされた者、貧しくされた者、抑圧された者、差別された者と共に生活され、私たち人間の救いのために苦難の道を歩まれ、十字架に架かり、私たちの罪のために死なれ、復活された方であると信じます。主イエスは、今も尚、私たちと共に歩まれ、私たちに慰めと励ましを与え続けていて下さる方であると信じます。主イエスは、神の子であり、神を現し示された方であると信じます。」

(柴田良和)


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幸福 [説教全文]

コヘレトの言葉312

 

わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と。(新共同訳)

 

第二次世界大戦中に牢獄死した三木清と言う哲学者で評論家がおられます。その三木清さんが、「人生論ノート」というその当時はよく読まれた評論集の「幸福について」という評論の中で次のようなことを言っておられます。「今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。・・・幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充みちているのではあるまいか。しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴附けている。」高校生の時に、その当時は背伸びして文庫本でそんなに分厚くなく薄い本だったので、読み通した覚えがあります。時々、思い返しては飛ばし読みをする本ですが、最初読んだ時よりも長く生きた分だけ成長したのでしょうか、何となく言わんとされていることが分かったような気持ちになっています。

今日の私たちもまた、これまでこの世で生きたすべての人たちと同じように「不幸になりたい」と思っている人は一人もいないのではないでしょうか。しかし、「幸福になりたい」とストレートに言えないほど世の中が混乱しているのではないでしょうか。

19世紀末に活動した文学者にオスカー・ワイルドと言う人がいます。童話も書いていて「幸福の王子」という童話が有名です。今回、説教題に「幸福」と付けさせていただいたときにこの「幸福の王子」と言う童話を思い浮かべました。

「町の上に高く柱がそびえ、その上に幸福の王子の像が立っていました。 王子の像は全体を薄い純金で覆われ、 目は二つの輝くサファイアで、 王子の剣のつかには大きな赤いルビーが光っていました。」

町中の人たちがこの立派な王子の像を自慢していました。政治家は勿論、泣いている子供にこの立派な王子のようになりなさいと言ったり、世の中に失望したりしていた男性も、この立派な王子を見て、喜んでいました。秋が来て、一羽のツバメがこの王子の像の下で、一晩を過ごし暖かい地方へと旅立とうとしていました。しかし、水がポタリポタリ上から落ちてきました。見ると王子の目から涙があふれていたのでした。王子は、像になる前は宮殿にいたので知らなかったのですが、今は町中を見わたせる高いところに立って町を見ていたので、街の隅々まで見わたせたのでした。あちらの片隅に困っている女の人、こちらの片隅に貧しい青年芸術家、お腹を空かしている子どもたち、王子はツバメに頼んで、剣についている宝石や自分の目である宝石をその人たちに届けたのでした。そして、体中に覆われていた純金も一枚、また一枚とはがして、ツバメに届けさせたのでした。時がたち、冬がやって来て、ツバメは王子の像の下で眠るように死んだのでした。後に残されたのは、みすぼらしい幸福の王子の像とツバメの死骸だけでした。王子は溶鉱炉で焼かれ、鉛の心臓だけが残されました。

最後にこの物語は次のように締めくくられています。「神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。 その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。 「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、 黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう」」

さまざまな苦労を背負い込んで、人生に疲れ果てていた人たちにイエスは言われます。

「心の貧しい人々は、幸いである・・・悲しむ人々は、幸いである、・・・柔和な人々は、幸いである、・・・義に飢え渇く人々は、幸いである、・・・憐れみ深い人々は、幸いである、・・・

心の清い人々は、幸いである、・・・平和を実現する人々は、幸いである、・・・義のために迫害される人々は、幸いである、」イエスは、十字架に架けられるまで、「幸いである」と宣言された人たちと共に生きられ、そして、今も私たちと共に生きておられます。

(柴田良和)


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