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確信に基づいて [説教全文]

ローマの信徒への手紙1423

 

疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。(新共同訳)

 

教会の暦では、先週の水曜日から四旬節、レントと伝統的には呼ばれてきた時期になります。先週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、ソテツ、棕櫚の枝などを集めて燃やし、その灰を回心のしるしとして頭か額にかける「灰の式」と呼ばれる儀式がおこなわれているようです。イエスが復活されたことを記念して行われる教会行事である、今年のイースター、復活祭は、4月9日ですが、それまでの間、時には断食などをして節制をし、イエスの受難を思い、過ごす時期としてキリスト教では伝統的に過ごす時期であるようです。イエス・キリストの受難は、キリスト教のシンボルが、古代ローマ帝国の処刑の道具である十字架であるように、キリスト教の本質的な事柄です。イエスが生涯を送られたのは、三十年ほどだとされていますが、その間に出会われた多くの人たち特に活動をされてからの弟子たちは、イエスが受けられた受難の意味、つまり十字架に架かられた意味を繰り返し、繰り返し思い起こしていたのだろうと思います。レントと呼ばれているこの時期、イエス・キリストが受けられた苦難を思いながら、同時に、今現在世界中にある苦難を思い起こしながら過ごすときとしたいものです。

さて、ローマの信徒への手紙も読み進んできて、3章21節から31節までに始まって、12章全体、そして、14章に入って今日の個所が14章最後の節となります。12章では、キリストを信じる者としてどのような生活を送るのかというパウロの勧めが書かれており、14章では、その生活の中でも共に食べること飲食をするとはどういうことなのかが書かれています。今日の個所で、しばらくの間、ローマの信徒への手紙を離れて、次回からは、旧約聖書のコヘレトの言葉を読んでみたいと思います。もしかしたら、一年ぐらいかかって読むかもしれません。

ところで、ローマの信徒への手紙は、何度かお話ししましたように、パウロの他の手紙と違って、未だ顔と顔を合わせて会ったことのないキリスト信徒に対して、手紙を書いています。その意味では、自己紹介を兼ねながら、パウロ自身のこれまでの宣教活動での経験を踏まえた発言や勧めが比較的まとめられた形で書かれています。また、どこからか情報を得ていたのでしょう、そもそもローマにキリスト信徒がいるという情報を得たのですからローマのキリスト信徒がどのような集まりであったのかもある程度ことは、パウロは知っていたのではないかとおもいます。ローマのキリスト信徒には、ユダヤ教徒であるキリスト信徒とユダヤ教徒でないキリスト信徒がいた者と思われます。つまりユダヤ人キリスト信徒と異邦人キリスト信徒です。そして人々が共に具体的に集団生活をする時には、具体的な生活の事柄、つまり何を食べるかが問題となってくると言うことが起こります。

最近、コロナが始まって以来「ソーシャル・ディスタンス」という言葉がはやりましたが、これは直訳すると社会的距離とでも訳せるのでしょうが、そのソーシャル・ディスタンスが取れにくいのが集団生活であり、特にキリスト信徒の集まりだったのではないかと思います。現代の私たちは、病気でもない限り、特に日本人は何を食べようと自由に周りの人を気にすることなく食べることができますが、古代の世界、特にソーシャル・ディスタンスなどと言った言葉がない社会では、集団生活をする上ではなにを食べるかは重要な事だったようです。

ローマの信徒での集まりでも、ユダヤ人キリスト信徒は、その宗教的習慣から律法に違反するほかの神々にささげられた肉を食べることには少なからず抵抗があったようです。そのユダヤ人たちをパウロは弱い人たちと呼んでいるわけですが、何を食べても問題はないとする自由な人たちと比べて自由が縛られているという意味で弱い人たちと呼んでいるように思います。

話は変わりますが。ある宗教家の人に聞いた話ですが。「不満」の反対は何だと思われますか。普通で言えば「満足」ですよね。でも、その宗教家の人はそうではないと言われるのです。「不満」の反対派「不安」だと言われます。その言わんとするところは、人は不満だらけでいることが多いですが、その不満が解消されると今度は、不満の状態になることが怖くなって不安になるそうです。なるほどと思わされました。傍から見たら不満だろうなと思う状況の中でも満足に平安が伝わってくるような人に出会うことがあります。キリスト教徒の方であるかどうかは知りません。でも、そのような平安の特権はキリスト教徒にあっていいのではないでしょうか。

今、神に生かされてある自分であるという確信に基づいて平安が与えられる。そのような自分であるように祈って行ければと思います。

(柴田良和)


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さあ、行こう [説教全文]

エレミヤ書5045節  

 

その日、その時には、と主は言われる。

イスラエルの人々が来る

ユダの人々も共に。

彼らは泣きながら来て

彼らの神、主を尋ね求める。

彼らはシオンへの道を尋ね

顔をそちらに向けて言う。

「さあ、行こう」と。

彼らは主に結びつき

永遠の契約が忘れられることはない。

 

おはようございます。今年の冬は厳しい寒さです。寒暖の差が激しく、いつ冬が終わって、春が来るのかわからない感じです。50年近く前、わたしが子どもの頃、故郷の北関東ではマイナス56度になることがしょっちゅうで、霜柱を、ふみふみ、学校に行っていました。結構雪も降って、積もっていたのですが、今は地球温暖化の影響でしょうか、子どもの頃に比べて暖かくなっていますから、特別に寒い日が来ると耐えられないようになってしまったのです。年をとったせいか、それとも病気をしたからでしょうか。今は寒いのがめっぽう苦手です。

そんなことを言っているのも贅沢というものでしょうか。テレビで大地震の起こったトルコやシリアの様子が映りますが、それこそ朝晩はマイナス5度になる現地では、まだ瓦礫の下に生きたままの被災者の方々が埋まっているといいます。大概、地震から3日ぐらいが命の助かる境目で、それを過ぎると生存率がぐっと下がってしまうということですが、今回の地震では7日たっていても、がれきの下で生存していて助けられる子どもたちや大人も多くいます。あきらめないで救出活動をし続けることが大切なことだと思います。一人でも多くの生存者が助かりますようにと祈るばかりです。

さて、エレミヤ書も最後の方になりました。エレミヤは神さまの言葉を預言していますが、イスラエルの人々を捕虜にしたバビロニアもやがて滅びてしまいます。今日の聖書の前の箇所ですが、一つの国がバビロニアを滅ぼします。それはペルシャのことですが、それがバビロニアの北の方から攻めてきて、バビロニアを滅ぼします。ペルシャ王キュロスはその後、捕虜であったイスラエルを解放します。イスラエルはユダ民族と共にイスラエルに帰ります。

イスラエルがバビロニアに戦争で負け、バビロン捕囚にあってから70年がたっています。イスラエルからバビロニアに連れてこられた初代の人々はもう死に絶えてしまった頃になっています。イスラエルに帰ろうとしているのは、その子どもや孫たちです。イスラエルがどこにあるのかもよくわからない人々が、彼らの神さまを求めて、泣きながら旅をしました。もちろん、母国に帰れるといったうれし泣きの意味で泣いていることもあると思いますが、彼らにとっては祖国とは言え、知らない場所です。心細くて泣いていたのもあるかもしれません。彼らは生まれつきバビロニアで育っているので、祖先の人々の拝んでいた神さまのこともよく知りませんでした。彼らは主を尋ね求めながら旅をしました。そして、彼らは道々、シオン(エルサレム)はどこにあるのですか?どうやって行ったらシオンに行けるのですか、と尋ねながら歩きました。

シオンはどこにあるのですか?と尋ねて、シオンへの道を教わると、彼らは顔をそちらに向けて言うのです。「さあ、行こう」と。彼らにとっては、エルサレムは「さあ、帰ろう」という場所ではなく、知らない場所、新しく出会う場所でした。勇気を出して「さあ、行こう」と声をかけあって旅をするのです。これからどのような生活が待っているのか、わからない場所へと向かいます。それに、祖先の神さまではあっても、自分たちはよく知らない神さまに導かれ、旅をしていきます。それでも、彼らは神さまに道を尋ね、導かれ、母国へ帰ります。神さまに近づき、結びついていきます。かつて、自分たちの祖先が約束された祝福が、神さまに永遠に忘れ去られることはないと信じて、彼らはまだ見ぬふるさとのエルサレムに向かいます。

余談ですが、わたしは1964811日、神戸の長田のお産婆さんの家で生まれました。神戸の三宮へは加古川の祖父母の家に行ったときによく行きましたが、長田には縁がなくて、その後長田に行ったのは、阪神淡路大震災のあと、ボランティアで食事を配りに行ったときでした。自分の生まれた町が、震災でめちゃくちゃに壊れているのにショックを受け、涙が出ました。その経験の後、イザヤ書やエレミヤ書の物語で、イスラエルの人々が、めちゃくちゃに壊れたエルサレムの街や神殿を見て泣いたというくだりが出てきて、自分の悲しい気持ちと重なるのを感じました。よく知らないところでも、自分の生まれた町がめちゃくちゃになっているのは、悲しいものです。

長田の街が焼けてめちゃくちゃになっているのは悲しいことでしたが、長田の人々が上を向いて、元気になろうとしているのを見ていると、こちらが元気になるのを感じました。60年もの長い間、長田の商店街の映画館の看板を書き続けたおじいさんが、食事を食べながらいろいろと話をしてくれました。昔、長谷川一夫の看板を書いたとき、刀をこっちに向けて、くせ者を切っている姿を描いて、それがかっこよくかけたのが自慢だったとか、石原裕次郎の看板も描いたとか、うれしそうに話してくれました。もう90歳になろうとしているおじいさんが、わたしにこう言ってくれました。「いつか長田の商店街が復興したら、また映画の看板を書いて、街の人たちを元気にしたいんや。そのために頑張って生きなな。」おじいさんはその数年後に亡くなってしまいましたが、おじいさんの元気な声と、夢いっぱいの瞳が忘れられません。ボランティアに行った私が、元気をもらって帰った出来事でした。今では長田も立派に復興して、課題はいっぱいあるけれど元気な街になったことがうれしいです。

イスラエルの人々も、故郷のエルサレムに帰ると、街がぐしゃぐしゃに壊されていて、自分たちの親や祖父母が言っていた美しい街がなくなっていることに強い悲しみを感じて泣いたそうです。しかし、エルサレムを復興させること、エルサレム神殿を再建することを目指して立ち上がった人々は、力を合わせて頑張りました。その結果、もとのような立派な神殿はできなかったものの、礼拝をするのに足りるほどの神殿が再建しました。人々は喜び、神さまに讃美をし、聖書の言葉を読みあって礼拝をしました。

捕虜となり、バビロニアに連れて行かれたエルサレムの人々は、もう二度と故郷に帰ることはできないと思って泣きました。でも、神さまはエレミヤに、70年の年月が過ぎた後、自分たちの子孫が故郷に帰ってエルサレムを復興させることを告げました。神さまは人々を放っておかれることはありませんでした。人々は「さあ、行こう」と声をかけあって顔をあげ、エルサレムに向かいました。

神さまはわたしたちを決して見捨てません。苦難にあうこともあります。試練の中を歩くことは、生きているうちにたくさんあります。しかし、神さまはそんな中でも共にいてくださり、助け出してくださるのです。だから、「さあ、行こう」と顔を上げて進んで行けるのです。

(中村尚子)


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自認 [説教全文]

ローマの信徒への手紙1422

 

あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。(新共同訳)

 

ローマの信徒への手紙、今日の聖書の個所はその一節ですが、を書いたパウロは根っからのユダヤ人でありユダヤ教徒でした。フィリピの信徒への手紙の中で、パウロは簡潔に自己紹介をしています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピの信徒への手紙35節)パウロはイスラエルで生まれたのではなく、古代ローマ帝国の属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれだと言われています。パウロが誕生した当時は、イスラエルだけでなく、ユダヤ教とは古代ローマ帝国が支配していた地中海世界にもユダヤ人たちは共同体をつくり、生活していたようです。パウロが生まれたタルソスは古代ローマ帝国の属州でしたからその市民はローマの市民権を持っていました。このことからパウロは当時の社会の中では、上流階級ではなかったけれども、中流階級であったようです。パウロは生まれて八日目に割礼を受けていることから、ユダヤ人の子供として生まれ、育ったことが分かります。しかも、律法に関してはファリサイ派の一員と言うことですから、ユダヤ人の一般民衆に対して指導者的な立場にあったとも言えます。実際、青年の頃は、イスラエルで有名な律法学者であったガマリエルという人から学問を受けたことが知られています(使徒言行録223節)。また、パウロのルーツが、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身と言うことは、ユダヤ人の中のユダヤ人であることが分かります。イスラエルの歴史の中で、統一王国の王となったダビデ、その子ソロモンの時代が過ぎ、イスラエルは北イスラエル王国の10部族と南ユダ王国の2部族と二別れました。そのあと、アッシリア帝国に北イスラエル王国は滅ぼされ、失われた十部族と言われるようになりました。残されたのは南ユダ王国のベニヤミン族とユダ族とになりました、このベニヤミン族とユダ族が住んでいた地域がユダヤと呼ばれていたので、この二つの部族はユダヤ人と呼ばれるようになったのでした。親からも周りの人たちからも生粋のユダヤ人として育てられたパウロでしたから、当時のユダヤ人がどういう思いで世界中に散らばりながらも自分たちの信仰を守り、生活していたのかは痛いほどわかっていたのだと思います。

キリスト教はユダヤ教を母体として生まれた宗教です。キリスト教とユダヤ教がはっきりと分かれて行くようになったのはパウロの時代より大分と後になってからです。ですから、世界帝国であった古代ローマ帝国の首都であったローマに少なからず自分と同じキリスト信徒であるユダヤ人がいたことはパウロにとってもうれしかったことだと思います。パウロは、ユダヤ人だと自認しながらユダヤ人以外の人達にも、というよりはむしろユダヤ人以外の人たちにキリストを伝えることを神から与えられた使命だと信じていたようですから、ユダヤ人の気持ちが分かる一方、できる限り、ユダヤ人以外の人の気持ちをわかろうとした人であったのだと思います。パウロは、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」と自認していますが、疑う余地のないほど神を信じていたパウロでしたが、律法が人のために神から与えられたものであるという事を置き去りにして、律法に縛られた、律法に人を仕えさせることから自由になったのがパウロでした。それゆえ、宗教儀式で使われた肉を食べるとか食べないだとかと言うことにも自由だったのだと思います。

聖書協会の新しい訳である聖書協会共同訳では、次のように訳されています。「あなたは自分の持っている信仰を、神の前で持ち続けなさい。自ら良いと認めたことについて、自分を責めない人は幸いです。」

自分の自由、と同時に他者の自由を創造しない信仰は信仰とは言えないのではないでしょうか。

(柴田良和)


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苦い杯 [説教全文]

エレミヤ書491213

 

主はこう言われる。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか。そうはいかない。必ず罰せられ、必ず飲まねばならない。わたしは自分自身にかけて誓う、と主は言われる。ボツラは、廃虚となり、恐怖、恥辱、ののしりの的となる。その町々は皆、とこしえの廃虚となる。」(新共同訳)

 

おはようございます。立春を過ぎましたが、まだまだ寒い毎日です。また、朝晩の寒暖の差が激しい日もあります。皆さん、健康に十分気を付けてお過ごしください。もう少しすると梅の花も咲くでしょう。春は確実に近づいてきます。しばらくの辛抱ですね。

さて、今日の聖書には「杯を飲む」という言葉がたびたび出てきます。聖書には「杯」という言葉がよく使われます。今日は聖書の中の「杯」という言葉について、考えていきたいと思います。今日はちょうど主の晩餐式もおこなわれますので、ちょうどよいかと思います。

「杯」という言葉は、旧約聖書のヘブル語で、おめでたいことではなく、苦難とか試練といった意味のある、どちらかと言えば避けたいような言葉になります。今日の聖書でも、「怒りの杯を飲む」といった言葉が出てきます。イスラエルの民が、エルサレム神殿に置いていたのは、神さまではなく、バアルやケモシュといった異教の神々の偶像でした。ヤハウエの神さまを賛美する場所のはずの神殿が、いつの間にか神ならぬものの住みかになってしまっていました。それに、戦争をせずに、静かに祈りなさいと預言者たちは民に告げていたのですが、エルサレムの官僚たちは農民たちから重税を巻き上げ、武器を買って戦争をしました。

このようなイスラエルの民の反逆に、神さまはお怒りになられ、エルサレムをバビロンの手に渡され、神殿も街も破壊されたのでした。これはまさに苦い杯です。本来は苦い杯を飲むべきではない一般市民や農民たちも、苦い杯を飲まされたのです。エルサレムに住んでいた官僚たちはなおのこと、苦い杯を飲まなければなりません。罰として、バビロンに捕虜として連れ去られ、奴隷として扱われたのでした。かつての美しい都エルサレムは廃墟となり、恐怖、恥辱、ののしりの街となってしまいました。

苦い杯といえば、この説教と晩餐式の後に歌う「善き力にわれ囲まれ」という讃美歌があります。この讃美歌の2番のところに「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝を込めて、愛する手から受けよう」という歌詞があります。この歌の作詞者はディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツ人の神学者で牧師ですが、ボンヘッファーは第二次世界大戦のさなか、ヒトラーのユダヤ人迫害に反対しました。ナチス・ドイツはこのようなボンヘッファーを、ヒトラーの暗殺計画に加わった者として牢屋に入れ、ユダヤ人たちと同じように処刑したのです。その牢屋の中で、ボンヘッファーは婚約者の女性にあてて、この「善き力にわれ囲まれ」の詩を送ったと言われます。ボンヘッファーにとって、処刑は苦き杯そのものでしたが、それを神の御心として受け入れていったのです。迫害されているユダヤ人を裏切ることなく、ボンヘッファーは寄り添って、命を落としたのです。

苦い杯といえば、これほど苦い杯はないと思えるのが、イエスさまの十字架の出来事ではないでしょうか。イエスさまは弟子たちと最後の晩餐をしたあと、ゲッセマネの園へお祈りをしに行かれました。その時、イエスさまはこう祈られました。「神さま、できるのでしたらこの杯をとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままになさってください」。イエスさまは、ご自分が十字架にかかられることを、できれば避けて通りたかったのです。いくらイエスさまだからといって、最初から十字架にかかるつもり満々でおられるはずはありません。イエスさまは神の子ですが、同時に肉体を持つ人間でもあるのです。耐えられないような苦しみにあうことを避けることができたらどんなにいいか、と思われたでしょう。イエスさまは「この杯をとりのけてください」と3度祈られました。3度と書かれていますが、ユダヤ人にとって、3度祈るというのは、徹底的に祈ること、100回も1000回も祈るのと同じことなのです。徹底的に祈られたイエスさま。しかし、神さまの返事はありませんでした。苦い杯は避けることができないものだったのです。血の汗を流し、3度徹底的に祈られたイエスさまは、この後、十字架の道へと向かわれます。苦い杯をお受けになることになります。

2月に入りましたが、もうしばらくすると、レント、受難節に入ります。わたしたちはイエスさまの苦い杯の出来事をめぐって、受難を思い巡らせ、祈る季節に入ります。よく、「イエスさまはわたしたちの罪の赦しのために十字架にかかって死なれた」と、決まり文句のように語られるのですが、イエスさまの十字架への道は、それほどさらっと言ってしまえるほど美しい、楽なものではありません。イエスさま本人も苦しんで、苦しんで、苦い杯をどうにか取り除けられないかと祈って、祈って、その上での覚悟と決断だったわけです。十字架を前に、わたしたちはイエスさまの受けられた苦い杯を、自分の身で感じなければならないのだと思います。十字架を、重たい、むごたらしいものとして受け止め直し、イエスさまによって救われたことを心に刻んで、再び歩みださなければなりません。

今日の聖書に戻ります。エレミヤが民に告げたように、ユダヤ人は神さまに背を向けて、罪を犯しました。その罪を自覚し、悔い改めるために、神さまはエルサレムを破壊し、人々をバビロンに捕虜として送りました。今日の聖書には「罰」と書かれていますが、それだけでなく、人々が神さまに立ち返ること、悔い改めることを望んで、神さまは苦い杯を彼らに与えたのだと思います。それでも、ユダヤ人たちはなかなか悔い改めることをせず、「神さまに見捨てられた」「神さまなんているものか」と言って、神さまに背を向けたままでいました。エレミヤは、苦い杯を与えられた神さまの言葉を伝えましたが、同時に、ユダヤ人たちが必ずバビロンからイスラエルに帰還する日が来ると語りました。エレミヤが語った通り、70年の後、バビロンがペルシャに滅ぼされ、ユダヤ人たちは解放され、母国に戻ることができました。苦い杯は取り除けられたのです。

わたしたちの人生の歩みの中にも、苦い杯はたびたび差し出されてきます。わたしたちが受けるべき罰があるとしたら、その罰はすでにイエスさまが十字架で背負われて赦されています。それでも試練や苦難はやってきます。たとえ苦い杯を差し出されたとしても、神さまはイエスさまをわたしたちのそばに置いてくださり、変わらずに私たちを愛してくださるのだと思います。

苦い杯から逃げ回るのでなく、意味のあるもの、大事なものとして受け取る時に、わたしたちは神さまの言葉を聞き、御心を知ることになるのではないでしょうか。わたしたちを苦い杯が襲っても、常にわたしたちは善き力に囲まれ、守られているのではないでしょうか。苦い杯を取り除けてください、と祈ることは、誰にでも赦されています。しかし、苦い杯が取り除けられず、依然として目の前にあるとき、恐れずにそれを受けていくとき、神さまが必ず守ってくださるに違いありません。

(中村尚子)


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