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永遠 [説教全文]

コヘレトの言葉311

 

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(新共同訳)

 

科学は仮説です。仮説とは、「物事を考える際に「最も確からしいと考えられる仮の答え」のこと。」です。現代の私たちは、「仮の答え」である科学の成果なしには成り立ちません。科学の成果の最も最たるものは、医学でしょう。医学も科学である以上、仮説です。しかし、仮説であるがゆえに進歩しているのだと思います。医学の進歩により、人間の寿命は年々伸び続けています。宇宙科学の世界では、宇宙は百三十八億年前にビックバンという大爆発が起こって、誕生し、五十億年前に地球ができたと言うことです。そして、絶妙なタイミングで、生物が生まれ、そして、私たち人間が存在しています。勿論、百三十八億年以前に何があったのかは分かりませんし、これから何が起こるのかは、現代の科学をもってしても仮説はありません。

田川健三という神学者の先生が「キリスト教思想の招待」という著書の冒頭で、次のように書かれています。「人間は被造物である。自分で自分を造ったわけではない。造られた存在である。神によって創られた、という。しかし、たとえ神なんぞ存在しないとしても、人間が被造物であるという事実に変わりはない。その意味では、人間は自分自身の主人公ではない。自分で自分を好きなように左右できるわけではないからだ。人間は、自分自身にかかわるこの事実に対して、謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさに、この事実に対する謙虚さを失っている。いつの間にか、人間のことは人間が好きなように動かしてよいのだ、と思い始めている。これはひどい思い上がりではないのか。」

人間が被造物であると言うことを何千年も昔の人々が、聖書の中では神話という表現形式で物語られています。最初に光が造られ、大空、陸地、海、太陽、月と星、植物、動物、そして、人間が造られたことが物語られています。絶妙なタイミングとバランスの中で私たち人間は、生きています。どうしてこのような神話物語が生まれたのか、様々に想像すると面白いです。

私たち人間、学実用語でホモ・サピエンスと言うそうですが、その人間が誕生した時から、最も宗教的な行為である埋葬という儀式が行われていたようです。大昔は今のように火葬ではなく土葬でした。小さな子供たちも、自分をかわいがってくれた人たちが死んでいく様を身近に見ていたのだと思います。そして、その意味を年配の人たち、おじいちゃんや、おばあさん、或いは、お父さんやお母さんに尋ねたのではないかと思います。

子ども:「どうして、土の中に埋めるの。」

おとな:「それはね。神さまがこの世界を創り、そして、土をこねて人間を造り、その人間に息を吹きかけると、君たちのように生きた人間となったのだよ。そして、寿命が来ると人はまた土に帰って行くのだよ。」

埋葬の後、焚火か何かを囲んで、大人たちは、子供たちにしみじみと語ったのではないか、そんなことを想像します。

動物が宗教性を持たないのは、この埋葬の儀式を行わないからだと言われています。死んだ人たちはどこに行くのか。その問いの中で、創造物語を物語った人たちは神の永遠性を感じていたのではないでしょうか。

人生を振り返るとき、様々なことが次から次へと起こってきます。そして、私たちはその意味を問い続けるのです。しかし、神を認めるとき、永遠を思う思いが与えられ、永遠とつながっているのです。パウロの言葉をお読みします。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。耐え忍んで善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠の命をお与えになり、」(ローマの信徒への手紙26節以下)「永遠の命」とは、今、この瞬間に与えられている命のことです。

(柴田良和)


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務め [説教全文]

コヘレトの言葉310

 

わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。(新共同訳)

 

最近、本の整理をしていて、つくづく思うことは、よくこれだけ本を集めたものだなと思います。この頃は、本をゆっくりと読む時間が取れないのですが、一冊の本を読む間にいつの間にか5・6冊は溜まっています。読みたい本は次から次へとあるのですが、いかんせん、読む時間がありません。一応、人前で話をさせていただく仕事をしていますので、それなりの知識がなければとは思うのですが、なかなか思うようにはいかないものです。たぶん、というより、絶対、あとどれくらい生きられるか分かりませんが、一生かかっても読み切れないでしょう。

コヘレトの言葉の著者は、コヘレトだと書かれていますが、コヘレトとは「集める人」だと日本語で訳せるようですが、知識や知恵に関して次のように書いています。「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。 ゆがみは直らず/欠けていれば、数えられない。 わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。 知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」(コヘレトの言葉112節以下)

私は、大哲学者や、大思想家でも何でもなく、只の凡人にすぎないので、そんなに深い悩みも痛みもありませんが、しかし、与えられている務めはしんどいものだとつくづくおもわされるときがあります。何だか、愚痴のようになってしまいましたが、世に言う「務め」とは、悩みが伴い、痛みが伴うものだと思わされます。

コヘレトは、今日の個所で、「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。」と言っていますが、人が悩み、痛みを伴う「務め」は神が与えられたものだと悟ったのだと思います。なにゆえ、人に神は、悩み多き、痛み多き「務め」を人に与えられるのでしょうか。

四苦八苦という言葉がありますが、もともとは仏教用語だそうです。四苦八苦の四苦とは、生、生きること、老、老いていくこと、病、病気になること、死、死んでいくこと、つまり、生老病死の四つの苦を言うそうです。それまで若くて健康であり、王子という身分であってなんの不自由もない暮らしをしていた釈迦さんが、ある時、城を出て、老いていく人、病気の人、死んでいく人を見て、すべてを捨てて仏教で言うところの悟りの道を歩まれたというのです。生きて行くのは、悩みや痛みが付きものです。そして、やがて老いていき、病気になり、死へと向かっていきます。どれだけ、知識や知恵を集めようともコヘレトが言うように空しいのです。

神は人間に悩み多き「務め」を与えられます。しかし、それは、今の時を生かされてある自分に着地し、安心して「務め」のために悩みぬくためだと思います。生きているときには、悩み、痛み、憤りが伴います。しかし、それらすべてを包み込んで、生かしてくださる神に安心して生かされて今の時を生きる、生きることを楽しむことをコヘレトは語ろうとしているのだと思います。

「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。」(コヘレトの言葉714節)

(柴田良和)


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神さまにもできないこと [説教全文]

マルコによる福音書143242

 

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

(新共同訳)

 

おはようございます。ずいぶん暖かくなって、春がやってきました。kさんがスマートホンに梅の花や早咲きの桜など、春のお写真をいっぱい送ってくださるので、朝晩は冷えても、「ああ、春が来たな」と思えるのでうれしいです。しかし、1つ困るのは花粉や黄砂が飛んでくることで、鼻水が出るわ、くしゃみが出るわで、春になるとこれに困らされています。

さて、先週の報告の時間にお話ししましたが、わたしは腎臓病の数値が急に悪くなり、人工透析を受ける準備に入りました。腕から血管に管を通して血液をきれいにする血液透析というものを受ける予定で、血管のエコー画像をとったりして、管を通すシャントを作る準備に入っています。私は、透析だけは避けたいと願ってお祈りをしていました。週に3日、4時間ずつ、病院で透析を受けなければならないのが面倒ですし、時間を取られることで仕事ができるか心配でした。神さまに「この杯を取り除けてください」と、何度お祈りしたことか。でも、いざ透析になると決まってからは、前向きになった気がします。透析を受けている時間は、ゆっくり体を休めたり、お祈りをしたり、説教の内容を考えたりする時間にして、その時間を有効に利用しようと考えたりしています。小児科の腎臓専門の医者である妹が、「透析を受けるとすっきりして、楽になるよ」と言ってくれたのも、わたしの気を楽にしてくれました。泊りの出張などはできなくなりますが、あきらめるところはあきらめて、前に進もうと思います。神さまも、聞けないお祈りはあるのだと思います。

さて、今日のお話は、イエスさまの「ゲッセマネの祈り」の箇所です。弟子たちとの最後の晩餐を終えた後、イエスさまは弟子たちを連れて、ゲッセマネというところへお祈りに行かれる場面です。ゲッセマネというのはヘブル語で「オリーブの油搾り」「オリーブの酒船」という意味のある名前で、園の中はオリーブの木がたくさん生えている場所、イエスさまがよくお祈りするのに使われた場所だと言われています。

イエスさまは園の入り口で、弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。イエスさまが祈る時、多くの場合、一人きりになって祈られるのでした。しかしこの時は違いました。弟子たちについてきて、一緒にいてほしいと願われたのでした。わたしにはその気持ちがよくわかるように思えます。イエスさまだって、ご自分が十字架にかかるということが、どんなにかおそろしいことだったでしょうか。これから先にあう苦しみを思うと、一人では耐えられなかったのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい」とイエスさまはおっしゃっています。

イエスさまが、十字架を怖がらないで、勇敢に苦難に進んでいったと言う人がいますが、それは違うと思います。イエスさまは神の子であると同時に、人の子でもあるのです。手足に犬釘(太く長い釘)を刺されて、痛くないはずはありません。御自分は何も悪いことをしていないのに、痛み苦しみにあい、人々から嘲られることが悲しい、おそろしいことであることに違いはないのです。スーパーマンみたいなイエスさまを期待するのは、本当の意味でのイエスさまの救いを理解することを妨げます。怖くて悲しくて、イエスさまは今、ゲッセマネの園に祈りに来たのです。

そして、イエスさまは弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れ出し、ひどくもだえ苦しみながら彼らに言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。弟子たちの中でも、もっとも頼りにしていた3人をそばに置いて、心を合わせ、一緒に祈っていてほしいと懇願されます。イエスさまたりとも、支えが必要な時があるのです。共に祈ってほしいときがあるのです。この人間としての弱さが、イエスさまの十字架の意味を強めることになるのだと思います。

イエスさまは弟子たちのところから少し進んでいくと、地面にひれ伏し、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去りますように」と祈られました。前回、「杯」についてお話ししましたが、十字架の出来事はイエスさまにとって「苦い杯」以外の何物でもありませんでした。できることならこの杯を取り去ってほしいと、神さまに泣いて願うイエスさまだったのです。

イエスさまは祈られます。「アッバ、父よ」。アッバというのは、お父さんという言葉の幼児語で、赤ちゃんが「パパ」「父ちゃん」と呼ぶ言葉になります。神さまに身を委ね、信頼して、「お父ちゃん」と呼び掛けるイエスさまの姿は、苦しみの極みにあります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください」。正直な思いをイエスさまは父なる神さまに吐露します。神さまにはできないことはないのだから、十字架を取り去ってほしい。イエスさまは心から神さまにそう願います。

しかし、続けてイエスさまは祈ります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエスさまは、すでに自分がすべきことがわかっておられたのです。十字架にかかって人々の罪を赦すこと、それは神さまの御心に適うことであると知っていたのです。「御心にかなうことが行われますように」というのは、すなわち、十字架につけてくださいと言うことです。イエスさまの心は揺れています。できることならこの杯を避けて通りたいけれど、父なる神さまの御心を遂げるためには十字架にかからなければならないのだと。

イエスさまが、冷や汗を流しながら祈り、3人の弟子たちのところに戻っていくと、弟子たちは眠っていました。もちろん、安らかな、心地よい眠りではなかったでしょう。恐怖に泣いて、呻いて、苦しんだ末、疲れて眠ってしまったのです。「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」。イエスさまに死んでもお仕えすると言っていたペトロ。でも、イエスさまが祈っておられるほんのわずかな間でも、起きて、心を合わせて祈ることができなかったのです。イエスさまはそんな弟子たちの弱さをご存じでした。でも、一緒に祈っていてほしい。支えてほしいと、弟子たちに求められたのでした。

イエスさまは、再び弟子たちの向こうへ行って、同じ言葉で祈られました。1回祈っただけで、「了解」と言えるような事柄ではありません。「アッバ、父よ」と泣きながら3度、イエスさまは祈られたと言われています。3度というのは、単純に3度祈ったと言う意味ではなく、「徹底的に祈られた」という意味で、100回も200回も祈ったという風にも捕えられます。それだけ、イエスさまの心は震えていた、揺れていたのだと思われます。

そうして、イエスさまが祈って戻るたびに、弟子たちは眠っていました。「ひどく眠かった」というのです。これは悪魔の誘惑にあっているからかもしれません。弟子たちはイエスさまの顔をまともに見られませんでした。なんといったらよいのかわからなかったのです。三度目に戻られたイエスさまは、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。イエスさまはこの時、決心がついて立ち、イスカリオテのユダの導く敵の方へと進んでいきました。

わたしが子どもの頃、なぜ神さまはイエスさまを助けなかったのか、神さまにはできないことはないと言われているのに、助けられなかったのか、と不思議に思っていました。しかし、神さまがこの時、イエスさまを助けていたら、十字架の出来事は起こらなかったのです。神さまのご計画は頓挫していたでしょう。十字架がなければ、わたしたちは罪を背負ったまま、生きて行かなくてはならなかったでしょう。神さまも十字架の出来事を取り消すことはできなかったのです。もちろん、物理的には可能だったでしょうが、この道を通さなければならなかったのです。神さまにもできないことはあるのだと思います。3.11のあの地震や津波も、神さまが何かの必然で起こされたのかもしれません。今でも取り除けてほしかった杯ですが、そこに何か意味があるのだろうと思うのです。

神さまの定めた歴史を通って、時は過ぎていきます。誰もそれを曲げることはできません。しかし、悲惨な歴史の中にも、神さまの深い慈愛があるのです。苦難の中でも、神さまの御心を信じて歩もうと思います。

(中村尚子)


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労苦 [説教全文]

人が労苦してみたところで何になろう。(新共同訳)

 

今回から、暫くは、「コヘレトの言葉」を読みたいと思います。コヘレトの言葉は、口語訳聖書では「伝道の書」と言う題名で、旧約聖書の文書でした。新共同訳聖書からは「コヘレトの言葉」となっています。

コヘレトとは「集める者」という意味であるようですが、著者は誰であるのか聖書では命じされていません。だだ、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と書かれており、ダビデの次の古代イスラエル統一王国の王であるソロモンであるかのように暗示されています。それゆえ、伝統的には、このコヘレトの言葉の著者は、ソロモンであるとされてきました。現代の各門的な研究では、ソロモンではなく、もっと後の時代に書かれた文書だと言われています。

文書の内容から、著者が、相当な財産を持った権力者的立場にあった人物、また、相当な額物を修めていて知恵者であったと言うことが仄めかされているので、旧約聖書の歴史書に書かれているイメージである王である権力者であり、知者であったとされるソロモンが当てはまるとされてきたものと思われます。

私がキリスト教に興味を持ち始めたきっかけは、母親の仕事仲間が、牧師の連れ合いで、その方の知り合いの牧師を紹介されて高校生の時に、私の英語の家庭教師になって下さったことがきっかけです。その時は特伝などで何度か教会に行ったことがありましたが、一方で宗教というものに反感を持っていましたので、大学に入ったらそれっきりでした。ですが、なぜか、大学の教養科目であった哲学の授業がパウロに関する者であったり、英語の授業のテキストが、小預言書と伝道の書(コヘレトの言葉)であったりとキリスト教に関するものでした。そして、そこで出会ったキリスト教、まぁ「伝道の書」の言葉に、今までイメージしていたキリスト教とは違った感想を抱くようになりました。宗教と言えば、キリスト教に限らず地に足がついていない「夢」みたいなものだと思っていたのですが、伝道の書(コヘレトの言葉)に書かれていることは、現実的で、どこか地に足がついているように思え、キリスト教を見なおしたきっかけになりました。

特に私が感心したというか、どこか納得させられた言葉が、口語訳の伝道の書312節から13節の言葉です。「わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」

最初読んだときは確かにその通りだと思いました。宗教を信じていようといまいと、すべての人に例外なく起こることは、生まれて、労苦して、死んでいくということです。この現実は、誰もが否定できない現実です。誕生し、労苦し、死亡する。この運命とでもいう現実から逃れる人は一人もいないのだと思います。そして、その運命とも言える現実を様々な思想で説明しようとしているのが、宗教の持つ役割の一つなのかもしれません。なぜ人は、私たちはその一生を労苦しながら生きて行くのか、そのことをキリスト教という宗教を通して学んでいければと思います。きっとその先には、イエス・キリストの十字架が意味を持って立っているのだと思います。

コヘレトの言葉3章1節から8節までを新共同訳でお読みしたいと思います。

「何事にも時があり

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時。」


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