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感謝は誰に [コラム]

わたしは心を尽くして主に感謝をささげ

驚くべき御業をすべて語り伝えよう。

(詩編92節)

 

八方塞がりで、四面楚歌である時、感謝できるでしょうか。子供の時に親の躾として、感謝しなさいなどと言われたことが、一度はあるのではないでしょうか。勿論、感謝は義務ではありません。心の底からありがたいと思えるときには、感謝を表すことが大切でしょう。しかし、私たち人間は、自分に都合がいいことには感謝し、都合が悪いことには不満を漏らすと言うのが現実です。先が見えない不安や焦りで、心が八方塞がり、おまけに、周りが敵ばかりに思えてしまう時、感謝の心を忘れてしまうのが私たち人間です。けれどもそのような時にこそ感謝をする視点が与えられるのが信仰です。人に感謝するのではありません。自分がどのような状況に置かれていたとしても尚、自分が何か大きなものに支えられ、生かされて生きているという現実に感謝すると言うのが信仰者のあり方です。

(柴田良和)

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補い合って [コラム]

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 コリントの信徒への手紙一12章 21節)
  毎日、目にしている日常の景色の中から見えてくるものがある。
    大方ズボラな性格なのだが、変な所が几帳面でもある。出勤の時、電車をプラットフォームで待つ時、同じ車両の位置でないと気が済まない。ということは、いつも、反対側のプラットフォームの景色を眺めるわけだ。病院や食堂などの看板もそこにはある。

しかし、なぜだか、今日は、いつも見て、読んでいるはずの教習所の看板の言葉が気になって仕方がなかった。

そこには、宣伝の言葉でこう書いてあった。「運転が 大好きになる 教習所」。

「個人」「集団」「全体」について哲学や社会学など様々な思想があるようだが、全く不案内である。ただ、社会の最小単位が「個人」であることは分かる。

また、「集団」はまさに人の集まりで、「個人」が属している人の集まりである。法律用語では法律で定められた集団を「法人」という(但し、国は法人と言わない)。「集団」は、一定の目的を持っている。企業の目的は?団体の目的は?国の目的は?

「教習所」は、車が法律に基づいて運転できるようになることだろう(運転するだけなら教習所に行かなくてもできる)。運転(法律に基づいた)が、大好きになる。いい宣伝文句だと思う。

運転できるようになれば、「個人」は、教習所を卒業する。つまり「集団」から離れていくわけだ。この教習所は、運転が大好きになるほど「個人」を大切にするということを宣伝しているわけだ。

「個人」が大切にされない「集団」は滅びが待っているだけだ。ブラック企業と呼ばれる「集団」。「個人」を大切にしない「国」。その先に見えるのは、滅びである。

ちなみに、「全体」は現在存在している人類全体の事である。「個人」も「集団」もこの「全体」の一部であり、互いが補い合っていかなければならないのだ。
(柴田良和)

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違った世界 [コラム]

“神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。” (創世記 1 31節)
今までに一度は、自分とはなんなのか、あるいは、この世界の不思議さに思いを巡らしたことはないでしょうか。いわゆる存在の謎について考えたことがあるのではないでしょうか。聖書を最初に紐解くと、この世界の創造の物語が綴られています。最初に、神によって「光」が創られ、空と海、大地、草木、太陽と月星、動物、そして、最後に人間が創られました。もちろんこれらの物語は、神話です。理性的に考えると荒唐無稽な物語かもしれません。しかし、聖書は科学の本ではありません。自分について、この世界についての存在の不思議さに目を向ける時、存在の背後に何かの意志を感じます。この創造の物語を伝えた古代の人たちは、そこに神の意志を見ていたのだと思います。そして、それは自分たちに対する神の好意として受け取ったのだと思います。この世界は、神によって極めて良いものとして創られたと信じる時、今までとは違った世界が開けて見えてくるのではないでしょうか。

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進むべき道 [コラム]

 
“さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。” (使徒言行録 16 6節)
 
私たちは、色々と計画を立てて実行していこうとしますが、どうしてもそのことができないことがあります。しかし、よく考えてみれば、自分の思い通りに事が運んでいくというのは、現実にはほんのわずかなことではないでしょうか。できなかったことで自分の力不足を嘆き、自分を責めてしまうのが私たちです。しかし、納得がいかない今の現実を受け入れ、その現実に誠実に向き合っていくというのが信仰者の姿ではないでしょうか。そして、その現実の中に神の導きがあるという事を悟っていったならば、自分の進むべき道が見えてくるのではないでしょうか。
 
 

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畏敬の心 [コラム]

 

“瞳のようにわたしを守り

 あなたの翼の陰に隠してください。”( 詩編17編8節)

 

 人間は弱いものです。そのことを本質的に知っているがゆえに人は、財産や知識や地位と言ったこの世の力によって身を守ろうとします。現代はストレス社会だと言われます。この世の力を手に入れようとして、結果として自分を痛めつけてしまっているのではないでしょうか。この世の力を手に入れることを至上命令だとし、唯一の目標だとする生き方は、競争による弱肉強食に開き直って生きる生き方です。しかし、この世の力によっては本当の意味で自分を守ることができないと悟ったとき、人は人を超えた存在に気づいていくのではないでしょうか。その気づきがあったならば、他者の存在に対する畏敬の心が生まれてくるのだと思います。瞳のように守り、翼の陰に隠してくださる存在への気づきがあったならば、その気づきは祈りとなっていきます。自分は弱いものだと認め、他者も自分と同じ弱い存在だと気づくなら、この世の力を求める生き方ではなく、他者と共に生きて行こうとする生き方へと変えられていくでしょう。


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自分を顧みる [コラム]

 

わたしは主をたたえます。

 主はわたしの思いを励まし

 わたしの心を夜ごと諭してくださいます。”  

(詩編16編7節)

 

現代の私たちは、何かに取りつかれたように毎日忙しくしています。忙しく動き回らなければならないと取り残されてしまうと思い込んでいます。実際、現実の社会は競争社会であり、競争に勝ったものが「勝ち組」と言われ、人生の勝者のように言われます。けれども「勝ち組」と言われる人は、ほんの一握りの人にしか過ぎません。そして「勝ち組」と言われる人たちの価値観に振り回されているのが大部分の人たち、つまり私たちではないでしょうか。競争するということが目的となり、経済的に繁栄するということが目的となってはいないでしょうか。人が大切にされるということを置き去りにした競争も繁栄も主客転倒です。忙しければ、忙しいほど、時には立ち止まって自分を顧みることが必要なのではないでしょうか。その時、人生の先にあるものが見えてくるのではないでしょうか。立ち止まって自分を顧みる。それは祈りとなっていきます。

 

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神の眼差し [コラム]

 

“主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り

 聖なる山に住むことが出来るでしょうか。”

(詩編15編1節)

 

「綺麗事では生きられない」と言われることがあります。確かに、正義や正しさを振りかざしている人にあまり近寄りたくないと思うのが、私たちの心情なのかもしれません。だからと言って、不正な現実に「綺麗事では生きられない」と開き直り、流されて生きるならば、心が傷つくのは他の誰でもなく自分自身なのです。なぜなら、人は、何が正しくて何が真実であるかを誰に言われなくても心の奥底で知っているからです。そして、それは神の眼差し、視線なのだと思います。心に疾しさを感じたならば、その時、神の視線が注がれているのではないでしょうか。正義や正しさを振りかざすのではありません。どこまで行っても過ちを犯してしまうのが人間であるからです。ただ、心に疾しさを持たない生き方をしようと心に誓い、神が注がれている眼差しを感じ、祈りながら生きるならば、本当の意味での喜びがあるのではないでしょうか。


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目覚めた人 [コラム]

 

 

“主は天から人の子らを見渡し、探される

 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。”

詩編14編5節)

 

 「善を行いましょう」との呼びかけは正しいものであり、そのことに賛同しない人は、たぶんいないでしょう。実際、自分のしたいように生きるのだと開き直って生きるのでない限り、善を行おうと考え行動するのがわたしたちでしょう。ただ、わたしたちが行う善は、不十分であり不完全なものです。そのことが抑えられていなければ、たとえ人々が称賛する善を行ったとしてもそれは、独善となり偽善となってしまうでしょう。神だけが完全な善を行う力を持っておられる。そのことに信頼し善を行う努力をし続けるのが、信仰者の立場です。神の視線は、いつも弱い立場に人々に向けられています。神の善は、弱い立場の人の味方となり共に生きることです。そのことに目覚めて生きる人を神は見渡し、探しておられます。この世がどれほど腐敗していると感じることがあったとしても、そこで開き直ったり、あきらめたりするのではなく、善を行う努力をし続けて行くことができるよう祈りましょう。神には力があります。

 

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神の慈しみ [コラム]

 

“あなたの慈しみに依り頼みます。

 わたしの心は御救いに喜び踊り

 主に向かって歌います

 「主はわたしに報いて下さった」と” (詩編13章6節)

 

 苦しい事、つらい事が続くとき、私たちは「この事がいつまで続くのか」と繰り返し問いを持ちます。つらい時は、心が動揺しています。嘆きの言葉が口をついて出てきます。生きるということは、思い煩うということなのか、と思わずにはいられないほど次から次へと思い煩うような出来事が降りかかってきます。現代に生きる私たちの人間関係は複雑です。たとえ人間関係が上手くいっていたとしても社会や世間は人に決して甘くはありません。嘆かずにはいられないときは祈りましょう。確かに、祈りは決して私たちに降りかかってきている問題を解決する手段ではありません。しかし、自分をさらけ出して祈る祈りを神は必ず聞き届けて下さいます。過去を振り返って、そこに神の働き、導きを知るなら、感じるなら、苦しみの中に在る今も尚、神の慈しみの中で生かされている自分であることに気づくのではないでしょうか。

 

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真実の言葉 [コラム]

 

“主は言われます。

 「虐げに苦しむ者と

 呻いている貧しい者のために

 今、わたしは立ち上がり

 彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」”(詩編12編6節)

 

 現実の社会の中で嫌になるほど悪の現実を見せつけられます。強い者、言葉巧みな者が人を操り、虐げられる者、貧しくされる者を生み出しています。そのような現実の中で私たちはどのように生きて行けばよいのでしょうか。弱肉強食の社会だからと言ってそこに居直り、力を持つことを人生の最大の目的にするのでしょうか。しかし、そのような生き方がおかしいと心のどこかで感じるのも私たちではないでしょうか。そのような時にこそ心のすべてをさらけ出し神に祈りましょう。救いを祈り求めましょう。神は、虐げに苦しんでいる者、呻いている貧しい者、あえぎながら救いを望む者を見捨てられません。神はわたしたちを見守ってくださいます。悪の現実が圧倒的な力を振るっていると思われるその時こそ、神のが私たちの、そして人々の心に響いてくるその時ではないでしょうか。

 

 

 


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