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しないのが望ましい [説教全文]

ローマの信徒への手紙1421

 

肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。(新共同訳)

 

何でも、十年に一度の寒波だそうで、まだしばらくは寒い日が続きそうです。とはいってもやはり、地球全体か温暖化しているのでしょうか。私が高校生の頃、大阪に住んでいましたが、通学路に雪が積もっていて、バスなどもチェーンをタイヤにまいて走っていたのを覚えています。最近は、雪が積もると言うことは大阪ではめったにないのではないでしょうか。しかし、いずれにせよ、体調には十分気をつけてまいりましょう。

最近、まだしっかりと見ていないのですが、気になっている映画があります。キリスト教の修道士の映画です。修道士の映画と言えば、何度も繰り返して観ている「ブラザーサン シスタームーン」というフランシスコ会の創始者である修道士フランシスコにまつわる映画があります。この映画は、好きな映画で、何か気が沈んだときは、よく観ています。今回、気になっている映画は、2014年に日本で公開されたドキュメンタリー映画です。映画の題名は、「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」です。実際に今でもある修道院の日常生活を淡々と映像にした映画です。フランスの映画ですが、この映画を撮影した監督は、修道院に1984年に撮影の許可を求めましたが、許可が下りたのは16年であったそうです。実際現在も観光地としては一切認められていません。2005年に映画は公開され、日本では、2014年に上映されています。

そこでの修道院生活は、一人一人個室があり、30人ほどの修道士が生活をしています。8時間の休息の時間があり、7時間を肉体労働ないし学問、9時間を祈りの時間として持つようです。食事は材料が運ばれてきて、自分で調理するようですし、基本、野菜だけです。一切他者との会話はなく、週一度の散歩の時だけ会話が許されているようです。実際、映画は3時間近くありますが、音楽は一切流れず、ただ淡々と修道士の生活を映しています。入会希望者も多いようですが、入会が許されるのはほんのわずかな人たちのようです。勿論、入会をゆるされた人は、退会するのも自由ですし、メンバーもその人を退会させるのも自由です。そのことを入会式の時に確認するシーンがありました。映画の中で会話があったのは、この入会式の場面と散歩の場面だけだったように思います。あとは一切の会話はなく、沈黙の中の祈りのシーンだけです。

私は、一時期、何年か精神的にしんどい時期を過ごしました。もうキリスト教徒でしたが、キリスト教から離れることは考えませんでした。しかし、教会に行くと言うこと苦痛に思えたときがありました。教会に行けば、いやでも誰かと話をせずにはおれないからです。なので、一時期は、教会に言っても誰とも会話をせずに礼拝に行きそして、礼拝が終わればすぐに帰って来たのを覚えています。もし何かの縁があれば、そして日本に「グランド・シャルトルーズ修道院」のようなところがあれば、入会を希望していたかもしれません。

福音書を読んでいると、特にマルコによる福音書を読んでいると、イエスはたびたび一人で山に登られ、祈りの時を持っておられたようです。沈黙による祈りから他者への適切な言葉が与えられ、他者への態度が与えられるのだと思います。だれにでもできそうで、そう簡単な事ではなく、難しいようで誰にでもその道は開かれているのだと思います。他の人を罪に誘ったり、つまずかせたりしないでいられるのは、誰とも関りを持たないのが一番ですが、それはそう簡単ではありません。だれかと必ず関係を持たずにおれないのが現代の私たちだからです。

今日の個所でパウロは言います。「兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」教会と言う、キリスト教会という私たちのこの集まりが、何のためにあるのか、なぜ集まっているのかを時には顧みて、静かな祈りの中で神に聞いていく時を持ちたいものです。

(柴田良和)

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わたしがお前と共にいる [説教全文]

エレミヤ書462528節 

 

万軍の主、イスラエルの神は言われた。

「見よ、わたしはテーベの神アモンを罰する。またファラオとエジプト、その神々と王たち、ファラオと彼に頼る者を罰する。わたしは、命を求める者の手に彼らを渡す。すなわち、バビロンの王ネブカドレツァルとその家来たちの手に。その後、エジプトは昔のように人の住む所となる」と主は言われる。

わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。

イスラエルよ、おののくな。

見よ、わたしはお前を遠い地から

お前の子孫を捕囚の地から救い出す。

ヤコブは帰って来て、安らかに住む。

彼らを脅かす者はいない。

わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと

主は言われる。

わたしがお前と共にいる。

お前を追いやった国々をわたしは滅ぼし尽くす。

お前を滅ぼし尽くすことはない。

わたしはお前を正しく懲らしめる。

罰せずにおくことは決してない。

 

おはようございます。早いもので、もう新年が明けてから1か月近くたとうとしています。わたしの感覚では、年々、月日が経つのが早くなっているように思えます。昨日、2022年の新年だったように思うのが、もう2023年の1月です。もう少しゆとりをもって、聖書を読み、祈りたいと思うばかりです。そんな私にうってつけの祈り会が連盟の今年の総会牧師、九州のN教会のT牧師が主催で行われています。毎日、朝615分にはじまり、「聖書教育」の日曜日の準備のための聖書と。「世の光」の聖書日課とメッセージをT牧師が読みます。そして、バプテスト誌に掲載されている今日祈る教会の祈りの課題を祈ったり、連盟理事会や神学校、連盟事務所の職員、全国壮年会連合や青年会、連盟の女性会のことを日替わりで覚えて祈ります。これはスマホのラインで聞くことができるのですが、この祈り会のおかげで、毎日、決まった時間に祈ることができ、良い習慣ができました。毎朝、良い祈りの時間を持っています。感謝なことです。この祈り会が終わると、続けて教会のみなさんをおぼえて祈っています。週の後半は、皆さんが元気に礼拝に集えるよう祈ります。

 さて、エレミヤ書も終盤に入ってきています。今年度いっぱいでエレミヤ書の学びを終えようと思っています。1年間、長い聖書の箇所を、よく我慢して聞いてくださったと思います。しかし、エレミヤ書は読んでいると、現代の世の中に通じるメッセージが書かれていることがわかります。特に今年度は、ロシアとウクライナの戦争が勃発して、ちょうどイスラエルとバビロンの戦争の話が書かれているエレミヤ書を読んで、戦争が早く終わるようにという祈りができるようになったと思います。朝の祈り会でも、毎日、平和が来ますようにと祈り続けています。あきらめないで祈ることができますように。

今日の聖書は、まず、テーベの神アモンについて神が罰するという話題が語られています。アモンの神というのは偶像神で、エジプトで信仰されていた神です。アモンということばは「アーメン」という言葉のエジプト読みです。太陽神ラーと共にエジプトで拝まれていた神で、多神教の神です。ファラオが出てくるのはエジプトの神だからです。神さまはこのエジプトの神に頼る者を罰すると言われます。そういえば、エルサレム神殿がバビロンによって破壊される前、神殿の中に多くの偶像の神が建てられていたのですが、きっとその中にも、エジプトの神アメン神がいたのではないかと思われます。イスラエルの神に頼らず、アメン神や、ケモシュというモアブの神など、異国の偶像神に頼る者を、神さまは赦されないと言われているのだと思います。彼らは、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されると言われています。

しかし、神さまは続けて「わたしの僕ヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな」と励まされます。ヤコブとはヤコブの子孫イスラエルのことです。彼らはバビロンに捕虜として連れ去られましたが、神さまは約束されます。「見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰ってきて、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない」。エレミヤは神さまから、捕虜になったイスラエルの人々が、70年の後、エルサレムに帰ってきて、神殿を建て直し、神さまを礼拝しながら穏やかに暮らすのだと約束された言葉を伝えたのです。

神さまはエレミヤに、力強い言葉を伝えて、イスラエルを励まします。「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと、主は言われる。わたしはお前と共にいる」。ここにもインマヌエル、神さまが共におられるという信仰が語られています。イスラエルの人々は、エルサレム神殿が破壊され、自分たちはバビロンに捕虜として連れて行かれたことで、神さまに見捨てられたのだと思い、恐れおののき、嘆きました。神さまは自分たちのもとを離れていかれたのだと思いました。しかし、それは違ったのです。神さまは人々がバビロンへ連れ去られてもなお、人々と共におられたのです。どこに行っても、神さまはインマヌエルの神、イエスさまがわたしたちといつまでも共にいてくださるのと同じように、イスラエルの民と共にいてくださるのです。

そして、神さまは、イスラエルの民を哀しみに追いやった国々を赦しませんでした。たとえば、バビロンがペルシャによって滅ぼされたように、イスラエルを苦しめる者を滅ぼしてしまわれると言われました。反対に、イスラエルを滅ぼし尽くすことはない、と約束されました。ただし、イスラエルが今まで起こしてきた罪については、正しく懲らしめると言われます。罰せずにおくことは決してないと断言されます。そのため、イスラエルの民はバビロン捕囚の憂き目にあったのです。

どんな逆教に会っても、神さまは共におられる、インマヌエルであるということは、すべての人に語られています。わたしも6年半前、がんで入院し、手術をしたときも、そこにイエスさまが共におられると感じていました。最初はがんであると聞いて恐れおののいたのですが、「わたしはあなたと共にいる。病院のベッドに一緒に寝ている。痛いときはわたしも痛み、苦しいときは一緒に苦しんでいる」と、イエスさまがおっしゃっているのだと思うと、希望が湧いてきました。そして、抗がん剤の治療を受けて、副作用がある中でどうにか治療を終えて家に帰った時、神さまはやはりインマヌエル、共にいてくださったのだと感じることができました。

私が入院したときの心細さは、バビロンに連れ去られた人々の心細さに重なります。早く家へ帰りたい。家に帰って安らかに暮らしたいと、誰しもが思ったことでしょう。エレミヤはそんな民に、将来、あなたがたの子孫がエルサレムへ帰ることができる、神さまが共におられる、と伝えました。しかし、絶望してしまった民は、「神さまなんかいるものか」「神さまは我々を見捨てた」と言って、エレミヤの言うことを聞きませんでした。希望のわく言葉を聞いても信じないイスラエルの民に、神さまは厳しい言葉をかけて罰しました。それがまた、神さまとの関係をこじらせたのも事実です。

しかし、イスラエルの民の中には、エレミヤの言葉を信じて信仰を保った人々がいました。希望をもって異国での生活をした人々、また、エルサレムに残った人々でエレミヤの言葉に希望をもって生きた人々がいました。こういう、信仰を保ち続けた人々は「残りの民」と呼ばれました。残りの民は、イスラエルの民の中のほんの一握りでしたが、神さまが自分たちを救い出してくださることを希望に、生き続けました。そのような人々は、エレミヤ書にはあまり現れませんが、イザヤ書の後半などに描かれています。

神さまの言葉を伝えても、聞く耳を持たれなかった、哀しみの預言者エレミヤ。現代にいるわたしたちも、イエスさまの福音を伝えようとしても、あまり聞かれないのが現実ではないでしょうか。聞かれないからとあきらめてしまわないで、日々の生活の中で、神さまが共におられる、イエスさまはよみがえって共におられるということを、証しし続けていけたらと思います。ごく少数かもしれませんが、残りの民のように、その証しを聞き入れてくれる人がいるかもしれません。希望をもって、神さまを信じていきたいものです。

(中村尚子)


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すべては清い [説教全文]

ローマの信徒への手紙1420

 

食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。(新共同訳)

 

一般的に聖書の話というと世間の人は、精神的で高尚な話を考えるようです。世間の人だけでなく、信徒の方たちの中にも「ありがたい話」を方たちがおられます。勿論、神に対する信仰の話ですからありがたい話には違いないのですが、聖書の話と言うのは、私たち人間の生活、つまり心と身体にかかわりのない高尚な話ではないのです。ある小説家の方が、「なぜ君はそんなに熱心に聖書を読んでいるのかね」と尋ねられて、「それはねぇ、君、聖書には人間にかかわりのあるあらゆることが書かれているからだよ」と答えたという逸話があります。実際、聖書の読み方によっては、政治、経済、社会に始まって、医療の問題までも書かれています。勿論、古代的な科学の水準の話ですが、基本的な考え方は、私たち信徒が正典と呼んでいる聖書、66巻の中に書かれています。そういった意味で、聖書はありがたく押し頂いて、棚の上に飾っておくものではなく、ボロボロになるまで使いこなす、つまり、読み込むというのが聖書に対する正しい接し方なのだろうと思います。

聖書は、古代の書物なので、なかなかとっつきにくいと感じることがありますが、そして、古代の人たちの生活のあり方や考え方を創造しながら読まなければ理解しにくいところもありますが、私たちが手にしている日本語訳聖書は、多くの学者が今の出来るだけの水準の学問的成果で、現代の日本人の私たちに近づけて翻訳されています。私たちの教会では新共同訳が使われていますが、聖書協会では新しい翻訳である、聖書協会共同訳という最新の学問的成果を取り入れた翻訳も出ています。興味のある方は手にして見られたら良いと思います。いずれにしても聖書は、何か宙に浮いた話が書かれているのではなく、私たちの生活や人生の糧となることが書かれているのです。

ローマの信徒への手紙を読み進んでいます。今日の個所も食べ物をどう食べるかと言うこと、つまり、生活のことが言われています。実際、ローマの信徒への手紙14章からは、食べ物のことがテーマとなっています。聖書の多くの個所、特に旧約聖書の律法の規定が書かれている箇所には食べ物のことが、食物規定として書かれています。

旧約聖書は、ユダヤ教徒の教典でもありますから、現代でも厳格なユダヤ教徒はこの食物規定を守っているようです、つまり、律法で食べてもよいとされるものは食べるし、食べることを禁じられているものは、食べないと言うことのようです。

最初期のキリスト信徒もほとんどがユダヤ教徒でしたからこの律法の食物規定を守っていたようです。イエスの直弟子のペトロもユダヤ教徒ですから食物規定を守っていたことが使徒言行録に書かれています。それは、ユダヤ教徒が選民意識として持っていた自分たちはほかの民族よりも神に選ばれた民なのだから優れている民であり、清くないほかの民、つまり外国人と親しく交わったり、友の食事をしたりすることはしませんでした。イエスの直弟子であるペトロも例外でなく、そのような選民意識を持っていたのですが、幻のうちにそのような選民意識が戒められたことが書かれています。「ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。(使徒言行録109節以下)

この後、ペトロはパウロと一時期ともに伝道活動をするすることになり、外国人、つまり、ユダヤ教徒が異邦人と呼んで、一緒に食事をしないなど遠ざけていた人たちと交わって行くようになったのでした。

神が創造されたこの世界、「見よ、それは極めて良かった」と神が世界を創造された後、書かれているように私たちを含めこの世界のものすべてはよきものとして神はつくられたのです。生活の中で、何かを清いとか清くないとかと考える前に私たちは良きものとして造られたそのことを心に留める者として生きることを学んでいきたいものです。

(柴田良和)


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あなたが良いと思うところに(要旨) [説教全文]

エレミヤ書4016

 

主から言葉がエレミヤに臨んだ。それは、親衛隊の長ネブザルアダンが、バビロンへ捕囚として移送されるエルサレムとユダのすべての人々と共に、エレミヤを捕虜として鎖につないで連行したが、ラマで釈放することにした後のことである。親衛隊の長はエレミヤを連れて来させて言った。

「主なるあなたの神は、この場所にこの災いをくだすと告げておられたが、そのとおりに災いをくだし、実行された。それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞き従わなかったからである。だから、このことがあなたたちに起こったのだ。さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。もし、あなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう。一緒に来るのが良くなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しと思い、正しいとするところへ行くがよい。――エレミヤはまだ民のもとに戻っていなかった――シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤのもとに戻り、彼と共に民の間に住むがよい。彼は、バビロンの王がユダの町々の監督をゆだねた者である。さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい。」

親衛隊の長はエレミヤに食料の割り当てを与えて釈放した。こうしてエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、国に残った人々と共にとどまることになった。

 

エルサレムの街が滅び、そこにいた技術者や学者など手に職を持っている人々は、鎖につながれ、バビロンへと連行されました。エレミヤも鎖につながれ、親衛隊の長ネブザルアダンによって、エルサレムやユダの人々と共にバビロンに連行されそうになっていました。しかし、エレミヤがほんとうに神の言葉を伝えていると知っていて、それを恐れたのか、ネブザルアダンはラマでエレミヤを釈放することにしました。

親衛隊長はエレミヤを連れて来させてこう言いました。「主なるあなたの神は、この場所にこの災いをくだすと告げておられたが、そのとおりに災いを下し、実行された。それはあなたたちが主に対して罪を犯し、その声に聞き従わなかったからである。だから、このことがあなたたちに起こったのだ」。このこととは、エルサレムの崩壊のことです。エルサレムの人々が、神さまのおっしゃる通りに武器を捨て、静かに祈ることをしなかったからです。エルサレムの官僚たちは、農民たちから重税を巻き上げ、武器を買って戦争に備えようとしたのです。今の日本も、税金を上げて資金をつくり、武器を買って戦争にそなえようとしています。同じ罪が繰り返されているのです。戦争は、神さまの喜ばれることではありません。「戦いをやめなさい」と、エレミヤやイザヤたちがいくら言っても、人々は聞きませんでした。

親衛隊の長ネブザルアダンは、エレミヤが語る神さまの言葉が、すべからく現実の事柄となっていくのを畏れたのではないだろうかと思います。親衛隊長は続けてこう言いました。「さあ、今日わたしはあなたの手の鎖を解く。もし、あなたがわたしと共にバビロンに来るのが良いと思うならば、来るがよい。あなたの面倒を見よう。一緒に来るのが良くなければ、やめるがよい。目の前に広がっているこのすべての土地を見て、あなたが良しとするところに行くがよい」。親衛隊長は、エレミヤに自由を与えました。神さまの言葉を聞き取ることのできるエレミヤに身の振り方を任せ、行くか戻るかを決断させようとしたのです。そして、親衛隊長は言いました。「シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤのもとに戻り、彼と共に民の間に住むがよい。彼はバビロンの王がユダの町々の監督をゆだねた者である。さもなければ、あなたが正しいとするところへ行くがよい」。エレミヤの行く先は、自由に決めればよい、と親衛隊長は言い渡しました。

親衛隊長はエレミヤに食糧の割り当てを与え、釈放しました。さて、エレミヤはどうしたでしょう。エレミヤはユダヤに戻り、アヒカムの子ゲダルヤのもとに身を寄せ、ユダに残っている人々と共にとどまることにしました。

(中村尚子)


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新しい心 [説教全文]

詩編5112

 

神よ、わたしの内に清い心を創造し

新しく確かな霊を授けてください。(新共同訳)

 

新しい年を迎え、今年は、一月一日が日曜日になりましたので、年の初めに主日礼拝と言うことになりました。世間では、初詣に出かける人たちの為でしょうか、電車も終夜運転をしているようです。しかし、一時代のようにどこもかしこもというわけではなく、終夜運転をする電車も減ってきているようです。何か、正月だからと言って段々と特別なことはしなくなってきているようにも感じています。昔は、正月と言えばおせち料理が食卓に並んでいましたが、そして年末に手作りで料理をしていましたが、現代は、有名なデパートや料理屋などで、調達することが一般的になっているのではないでしょうか。

そもそも、おせち料理と言うのは、保存食が基本にあり、一年中重労働をしているので、家事労働をしなくてもいいように三が日に食べることができるように作り置きをするという慣習から始まったものだと聞いたことがあります。要するに正月というのは、一年の労働をねぎらい、ゆっくりと過ごし、心機一転、心を新たにする時としてあるものではないかと思います。

我が家も年末年始はゆっくりと過ごそうと思い、年末は殆ど何もせずに過ごしました。現代は、食事にしても特に正月だからと言って特別におせち料理などを用意しなくても、店が開いていますので、便利になったものだと思います。それも比較的都会に過ごしているからでしょうか。地方の方々は、昔ながらのおせち料理を食べて過ごす生活をされているのかも知れません。いずれにしてもゆっくりと休むという正月の基本的な精神は忘れないようにしたいと思います。日頃の様々なことで心がいっぱいになっていたものをゆっくりとすることによって整理し直してみるのも正月の過ごし方としてはよいものではないでしょうか。

さて、今日の聖書の個所である詩編51編は、2節に「ダビデがバトシェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と書かれています。ダビデと言えば、イスラエル民族がカナンという土地に定着し始めていたころ、他民族とのいさかいが絶えなかったので、イスラエルの人々は、軍事力を高めようとして王を立て、そのイスラエルの十二部族の最初の統一王国の王となったのがダビデでした。

ダビデは青少年の頃は、羊飼いだったようですが、イスラエルと争っていた他民族であるペリシテ人のゴリアテという大将格の兵士を打ち破ったという話が聖書では有名です。最初の王であったサウルの後を継いで、最初のイスラエル十二部族の統一王国の王となったのでした。それゆえ権力をほしいままにして、自分の部下である兵士の妻バトシェバを、策略を用いて奪い取ったことから、預言者ナタンにとがめられて、神に悔い改めているダビデの言葉と言う態で、詩編51編は書かれています。

自分の心は自分のものだから自分の思いどおりにどうにでもなると考えるのが私たちの常識ではないでしょうか。しかし、少し自分の過去を振り返ってみると自分の心ほど自分の思いどおりにはならないのが現実ではないでしょうか。思いたくないことを思ってしまう。したいとは思っていなかったことをしてします。どこか破綻してしまっている自分の心に気づくことはないでしょうか。ダビデは、バトシェバのことで預言者ナタンにとがめられて、自分が何者であるかに気づかされたのでした。

そして、そのことで悔い改めの祈りの言葉の一節が今日の言葉です。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し

新しく確かな霊を授けてください。」

新しい年、常に新しい心が与えられるようにと祈る一年となって行ければと思います。

(柴田良和)


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